台風のうなり声を聞きながら

2006年07月09日

Posted by 吉野のおじさん at 00:08 │Comments( 0 )
7月8日(土)  暴雨風

外は台風3号がうなり声をあげて吹き荒れています。

宮古島には平均して年間3回~4回の台風(暴風域に入るもの)が接近します。
宮古島の人達にとって、台風の受け取り方は時代と共に変わっているように思われます。
復帰前は、住宅も貧弱(掘っ建て小屋ー宮古島博物館に復元したものあり)で、ちょっと強い風が吹くと倒壊してしまいます。4年前の14号台風で私もそれに近いものを経験しましたが、その恐怖は筆舌に尽くせません。

また、農作物の被害は、死活問題です。ただ、農業にとって最も怖い自然現象は干ばつです。
干ばつの最中の台風がもたらす雨は天の恵みとも言えますが、それも程度問題です。宮古島では米作がなく、食料は自作の雑穀、サツマイモ、野菜ですが、台風が来ればこれらが被害を受け、飢餓の危険にさらされる事になります。

また、当時の台風は突然に来ました。どちらの方向からくるかも分かりません。自然現象(台風前の夕焼けは異常な色をしていることなど)によって知るしかなかったのです。当時の宮古島の人達にとって台風は、恐怖であり、同時に恵みをもたらすもの、まさに自然そのものだったに違いありません。被害は出来るだけ小さくし、多くの恵みをもたらすように神に祈った事でしょう。

この時代には、自然と人とが共生していました。

島のいたるところに松林があり、これが家を風から護ってくれ、その林の中には、野草、野生の果物が豊富でこれらで餓えを凌ぐことが出来ました。(時にはこれらを食べ尽くし、毒性のあるソテツの実を食べて、死に至ると言うこともあったと言う話も聞いた。)
海には、珊瑚礁が魚を護り、育んで人々を餓えから救っていた。珊瑚礁は宮古島の人の食料庫でもあったのです。だから、島の人達は、珊瑚礁を大事にしていました。
宮古島ではほんの三十数年前までは、自然と共生する知恵を持っていたのです。

復帰後はどうでしょう。
復帰後、宮古島にも莫大な政府の資金が投下され、住宅もスラブ作りの頑丈な物になり、食料も買うことが出来る(台風の時は船が欠航するため野菜が入荷しないことがありますが、せいぜい2日~3日の辛抱です。)ようになりました。
テレビの台風情報で前もって知ることが出来、台風対策も充分にできるようになり、台風に対する恐怖感は以前ほどのものではなくなっています。
それはそれでいいのかも知れませんが、住宅地を造るために松林を破壊し、化学肥料多用による農地の荒廃(保水性の低下)、土地改良による赤土の流失による珊瑚礁の破壊など、自然との共生という意味では、失われたものが多いように思われます。

そして、今、公共工事も縮減され、補助金も大幅にカットされたため、宮古島は不景気に喘いでいます。スラブの頑丈な家も30年経てば老朽化し、台風が来ればみしみしと軋み、腐った窓枠はいつ壊れるか分かりません。あの恐怖を再び経験することになり、以前ほど余裕を持って台風を迎える事が出来なくなっています。この恐怖から逃れるため金(修繕或いは新築費)を得ようとします。しかし、宮古島には今仕事がありません。金を得るためには、自然を壊してもいい、法を犯すのも仕方ないと言うことにもなりかねません。吉野海岸問題はまさにその現れです。
吉野海岸を護るためには、対症療法的に解決することは難しいことです。
宮古島全体の活性化(仕事作り)を図ることが吉野海岸を護る近道と考え、活性化(自立)への提言をし、積極的にそのことを推し進めていく事にします。

外の台風のうなり声はそのことを急げと急き立ているように聞こえます。




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