少年時代(4) 

2007年11月16日

Posted by 吉野のおじさん at 23:23 │Comments( 0 ) 仙人村
 ご愛読有り難うございます。

仙人村の時代背景を50年代とすることにはもう一つ理由が有ります。
日本は戦争に負けて、何もかも失いました。
戦後、5年間は茫然自失の時代だったと思います。昭和25年朝鮮戦争が始まり、特需で景気が良くなり、これによって国民は希望を保つことが出来ました。そして、昭和35年には池田内閣の所得倍増政策を発表し、高度成長(物の豊かさ、大量生産)へひた走り始めました。この10年間は日本の伝統文化の残照だったのではないかと思います。
その頃は、多くの物が手作りでした。物に作った人の心がこもっていたと思います。その心が文化ではないでしょうか。
その精神文化を残し、伝えるためこの時代設定にしました。

少年時代(4)
 九人兄弟というのは先に話した。
私は8番目、男では6番目である。長兄とは20歳違う。年齢差から言うと親子である。
次兄とは14歳違いであるから、私が物心つく頃次兄はすでに大人であった。
小さい頃遊んで貰った記憶はないが、他の兄弟には怖い存在だったらしい。
 私が2年生の頃次兄は東京へ出た。代議士の秘書をやっていたらしい。
選挙や何かで時々帰省した。三揃えのスーツを着て、ピカピカの革靴をキュッキュッとならしながら颯爽としていたのを覚えている。土産は大抵児童書だった。「家なき子」「怪盗ルパン」「十五少年漂流記」「海援隊長坂本龍馬」などなど、おかげで本を読む楽しさを知った。
 私が小学4年の時、次兄はアルゼンチンに移住することになった。
アルゼンチンまでは船で一ヶ月以上かかるという。寄港地から時々手紙が来た。世界地図を広げて寄港地に印をつけていって、不思議に思うことがあった。地図の上で見ていると香港、シンガポール、カルカッタ、ケープタウンと反対の方に進んでいる。
学校で地球儀を見ると、アルゼンチンはちょうど地球の反対側で、南米大陸の東海岸(ブラジルのリオデジャネイロ、アルゼンチンのブエノスアイレス)に行くためには西回りの方が早いことが分かった。世界の広さも知った。
 次兄がアルゼンチンに行ったことは私に大きなインパクトを与えた。大きくなったら自分も行こうと思った。高校生になったとき、兄に何回もその旨手紙を書いた。そのたびにもう少し落ち着いたら呼ぶという返事だった。
というのは、そのころ、最初入植した土地が農業に適しないような荒れ地(最近ドミニカ移民で問題になっているように詐欺紛いの土地斡旋が多かったらしい。)で、何年かそこにいたが、結局、そこをあきらめ、ブエノスアイレスに出て別の仕事をしている時で、とても呼べるような状況ではなかったらしい。それでも私は諦めなかった。結婚した時点(25歳)でもそのつもりだった。
 そして、時が過ぎた。
 兄が二十数年ぶりに帰国した時、成田へは私が迎えに行った。小さい頃の私の顔しか知らない兄は気づかなかったが私はすぐ分かった。小さい頃のイメージと少しも変わらなかった。
 その後何回か帰国した。何回目の帰国の時だったか、二入で車で田舎(鹿児島)に行くことになった。
その時初めて兄とゆっくりと話をした。兄は日本のこと、特に農業のことを憂えていた。日本を離れているからかえってよく分かると言う。兄は希有壮大で、他の人が聞いたらまた大風呂敷を広げてと言うことになるが、私はそうは思わなかった。
農業の話から、宮古島(私の妻の出身地)の農業の話になって、パインが出来ないというと、それならブドウがいいと言う。
私はその時まで、ブドウは寒いところにしか出来ないと思って、そう言うと、昔はそうだったが最近ブラジルで日本人の学者が発芽をコントロールする技術を開発し、今ではブラジル、東南アジアなど暑いところで栽培されているという。
 兄はその頃アルゼンチンのメンドーサでワイン用のブドウ園を経営していた。
宮古島でもブドウが出来るというを聞いて、もし宮古島でブドウが出来ればと思い、兄に宮古島に行って貰うことにした。
兄は宮古で調査し、関係者に会い、土壌的に問題があるがそれは技術的に解決できることで反っていい物が出来るかのしれないと言うことであった。
 その頃、私も宮古島の活性化を考えていた。兄も出来れば日本で人生を全うしたいと言う。では、二人でやろうと言うことになった。
 その時は、それでアルゼンチンに帰っていったが、私はプラン(30年後の宮古島)を作り始めた。
兄はアルゼンチンで日本人会の代表として、天皇陛下をお迎えすることになっており、それが終わったら帰国することになっていた。 
 そして、先発としていよいよ単身宮古島移住を決心し、その報告を志木(埼玉県志木市)の姉の家に行っている時、鹿児島の長兄から次兄が死んだという連絡が入った。
 呆然自失。が、ことここに至って引き返すことは出来ない、予定通り単身宮古入りした。
そして、10年が過ぎた。「仙人村」は私がその時プランニングした宮古島活性化の第一ステップである。この10年間はその準備期間であった。
 個人の歴史でも”もし”はないが、もし、この兄が居なかったら、私は別の人生を送っていただろうし、宮古島の名すら知らなかったかもしれない。あの時点での兄の死は私への最大のバックアップであり、それがなければ、今頃はギブアップして宮古島にいることはなかったと思う。
 兄は今も我が胸にあり、常に私を励ましている。

次回はいよいよ少年は本校に行くことになります。
乞う ご期待

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