ご愛読有り難うございます。
仙人村には映画館もあります。
T少年が子供の頃(小中学生)は映画は年に一回か二回、学校から先生が引率して映画館で見た。
前の晩からわくわくして眠れないぐらい楽しみだった。
当時はまだほとんどモノクロでシネマスコープでもなかった。
その頃見た映画をラインアップすると
時代物では「笛吹童子」「紅孔雀」(東千代助、中村(萬屋)錦之助)、クライマックスではやんやの拍手
「千羽鶴?か原爆の子」、2歳で被曝し、白血病で14歳の時なくなった少女の物語。乞食姿の少年が「パパママピカドンでハングリー!」と物乞いするシーンが印象的だった。河原にしゃれこうべが散在していてそれを子供達が拾い集めるシーンはしばしば夢に見て悩まされた。
「椎の実学園」 福岡に実在(創設者の園長は現在百歳を超えて現役)する障害児施設の物語、♪ぼくらは しいのみ まーるい しいのみ♪)と今でも歌える。
「二十四の瞳」、舞台は瀬戸内の小豆島の岬の分教場、12名の生徒と女先生の物語 ♪しばしもやすまず つちうつ かじや ♪ と歌いながら12人の子供と先生が田舎道を歩いているシーンがトップだったように覚えている。
「ひめゆりの塔」小学4年生頃だったと思う。沖縄を知りそめし初めなり。だから、今、沖縄と言うことでもないが、沖縄というキーワードがインプットされたのは間違いないように思える。
「喜びも悲しみも幾歳月」 息子が船長している外国航路の大型客船を、夫婦で灯台の上から遠く見送るラストシーンが良かった。佐田啓二格好良かったなぁ。真剣に灯台守になろうと思った。主題歌の同名の歌は今でも時々吉野海岸の浜のゴミを拾いながら大声で歌うと元気が出る。
当時は映画全盛時代で学校では連れて行って貰えなかったが大人になって見た映画にもいいのが沢山あった。
「羅生門」、「七人の侍」、「野菊のごとき君なりき」、「ビルマの竪琴」などきりがない。
洋画では「禁じられた遊び」「エデンの東」、忘れちゃいけない「ローマの休日」は’54年。
やっぱり映画はいい。テレビドラマはほとんど見流しだが、映画は暗い中で完全にドラマの中に入っていける。
仙人村にはその頃の映画を何時でも見られる小さな映画館(芝居小屋風)もあった方がいい。
子供の頃聞いたであろうおじいちゃんの昔話のつもりで、孫と一緒に映画を見たらいい。一緒に泣き、笑うがいい。そしたら、子供達は大人がどんな場面で泣き、どんな場面で笑うか知ることが出来る。喜怒哀楽を共有することは人間の絆にとって大事なことではないかと思う。
次回のヒントは「藁葺きの家もいいなぁ」
少年時代(9)
子供会の行事
子供会(小中学生)の行事は正月七日の夜の「おねっきょ(どんどやき)」で始まる。これは、部落中の門松や注連飾りを集めて焼くもので、この火で焼いた餅を食べると無病息災に一年が過ごせると言う。子供達は朝から門松を集めたり、柱になる高い木を切り出したり、それらを櫓(やぐら)に組んだりして準備する。櫓は平屋の家の高さぐらいになる。準備が出来ると二手に分かれて戦争ごっこになる。石を投げ合ったり、青竹でたたき合ったり、結構荒っぽい。時々けが人も出ることがある。夜になって、櫓に点火されると家の火事ほどの迫力があり、とても餅を焼くほどには近づけない。少し下火になって、銘々が長い竹に刺した餅を焼く、下手するとぽろっと落ちたりするので刺し方に工夫がいる。火力が強いため中まで焼くと外側は黒こげになってあまりうまくなかった。だから、虚弱体質だったのかもしれない。
夏は盆相撲大会があった。旧暦のお盆(旧7月15日)の夜に行われる。その2週間位前から毎晩稽古がある。自慢ではないが、運動音痴でチビのT少年は稽古を含めて勝ったという記憶がないが、運動会ほどいやではなかった。ただ、褌の色が他と違って、T家のは黄色だったことが恥ずかしかった。と言うのは、褌は普通の家では6尺(約180cm)の白の晒しだったが、T家の場合、父親が弓の御前試合の時着ける鎧装束の帯が黄色く染められていて、それを子供の相撲の褌に使っていた。ちなみに父の弓道は薩摩日置流といって、片膝立ちで射る流儀で、東京オリンピックのオープニングアトラクション(父はすでに亡くなっていたが)にもなった。明治の人として天皇崇拝の篤かった父が陛下の前で着ける物を子供の褌にするのはちょっと腑に落ちないが、意外と合理主義者だったのかもしれない。
閑話休題
旧暦の中秋には綱引きがあった。綱は直径が10cm、長さが50m位だった。綱は青年団の人達が編んだ。
子供達は夜の8時頃になると、家々を回ってお供え物(ぼた餅、団子、芋、栗など)を大きなかごに貰ってきて、それを分け合って食べる。T家では祝い事などのお呼ばれ以外は外で物を食べるのが禁じられていた(その頃はまだ赤痢、疫痢等の伝染病があった。)からT少年はその分け前をいつも辞退せざるを得ないので楽しくなかった。
綱引きが始まる前、声をそろえて和歌(?)を歌った。意味は分からなかったが今でも覚えている。
あ あたごまいりにーそ そでもひかれーて そらーそ そでーも あ あたーご のーごいしょや お おもーしろや のーかーたがた と歌って、二手に分かれて引き合う。勝った方はそのまま50mほど綱を引いたまま駆けて行く。3回勝負であった。
次回は「子供の遊び」です。
吉野海岸からのお知らせ
16日はビーチクリーンディーです。
作業時間は別に決めません。ゴミ袋一杯分の漂着ゴミを拾って貰えれば参加したことになります。
お気軽に参加して、静かになった吉野の浜を楽しみましょう。
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仙人村には映画館もあります。
T少年が子供の頃(小中学生)は映画は年に一回か二回、学校から先生が引率して映画館で見た。
前の晩からわくわくして眠れないぐらい楽しみだった。
当時はまだほとんどモノクロでシネマスコープでもなかった。
その頃見た映画をラインアップすると
時代物では「笛吹童子」「紅孔雀」(東千代助、中村(萬屋)錦之助)、クライマックスではやんやの拍手
「千羽鶴?か原爆の子」、2歳で被曝し、白血病で14歳の時なくなった少女の物語。乞食姿の少年が「パパママピカドンでハングリー!」と物乞いするシーンが印象的だった。河原にしゃれこうべが散在していてそれを子供達が拾い集めるシーンはしばしば夢に見て悩まされた。
「椎の実学園」 福岡に実在(創設者の園長は現在百歳を超えて現役)する障害児施設の物語、♪ぼくらは しいのみ まーるい しいのみ♪)と今でも歌える。
「二十四の瞳」、舞台は瀬戸内の小豆島の岬の分教場、12名の生徒と女先生の物語 ♪しばしもやすまず つちうつ かじや ♪ と歌いながら12人の子供と先生が田舎道を歩いているシーンがトップだったように覚えている。
「ひめゆりの塔」小学4年生頃だったと思う。沖縄を知りそめし初めなり。だから、今、沖縄と言うことでもないが、沖縄というキーワードがインプットされたのは間違いないように思える。
「喜びも悲しみも幾歳月」 息子が船長している外国航路の大型客船を、夫婦で灯台の上から遠く見送るラストシーンが良かった。佐田啓二格好良かったなぁ。真剣に灯台守になろうと思った。主題歌の同名の歌は今でも時々吉野海岸の浜のゴミを拾いながら大声で歌うと元気が出る。
当時は映画全盛時代で学校では連れて行って貰えなかったが大人になって見た映画にもいいのが沢山あった。
「羅生門」、「七人の侍」、「野菊のごとき君なりき」、「ビルマの竪琴」などきりがない。
洋画では「禁じられた遊び」「エデンの東」、忘れちゃいけない「ローマの休日」は’54年。
やっぱり映画はいい。テレビドラマはほとんど見流しだが、映画は暗い中で完全にドラマの中に入っていける。
仙人村にはその頃の映画を何時でも見られる小さな映画館(芝居小屋風)もあった方がいい。
子供の頃聞いたであろうおじいちゃんの昔話のつもりで、孫と一緒に映画を見たらいい。一緒に泣き、笑うがいい。そしたら、子供達は大人がどんな場面で泣き、どんな場面で笑うか知ることが出来る。喜怒哀楽を共有することは人間の絆にとって大事なことではないかと思う。
次回のヒントは「藁葺きの家もいいなぁ」
少年時代(9)
子供会の行事
子供会(小中学生)の行事は正月七日の夜の「おねっきょ(どんどやき)」で始まる。これは、部落中の門松や注連飾りを集めて焼くもので、この火で焼いた餅を食べると無病息災に一年が過ごせると言う。子供達は朝から門松を集めたり、柱になる高い木を切り出したり、それらを櫓(やぐら)に組んだりして準備する。櫓は平屋の家の高さぐらいになる。準備が出来ると二手に分かれて戦争ごっこになる。石を投げ合ったり、青竹でたたき合ったり、結構荒っぽい。時々けが人も出ることがある。夜になって、櫓に点火されると家の火事ほどの迫力があり、とても餅を焼くほどには近づけない。少し下火になって、銘々が長い竹に刺した餅を焼く、下手するとぽろっと落ちたりするので刺し方に工夫がいる。火力が強いため中まで焼くと外側は黒こげになってあまりうまくなかった。だから、虚弱体質だったのかもしれない。
夏は盆相撲大会があった。旧暦のお盆(旧7月15日)の夜に行われる。その2週間位前から毎晩稽古がある。自慢ではないが、運動音痴でチビのT少年は稽古を含めて勝ったという記憶がないが、運動会ほどいやではなかった。ただ、褌の色が他と違って、T家のは黄色だったことが恥ずかしかった。と言うのは、褌は普通の家では6尺(約180cm)の白の晒しだったが、T家の場合、父親が弓の御前試合の時着ける鎧装束の帯が黄色く染められていて、それを子供の相撲の褌に使っていた。ちなみに父の弓道は薩摩日置流といって、片膝立ちで射る流儀で、東京オリンピックのオープニングアトラクション(父はすでに亡くなっていたが)にもなった。明治の人として天皇崇拝の篤かった父が陛下の前で着ける物を子供の褌にするのはちょっと腑に落ちないが、意外と合理主義者だったのかもしれない。
閑話休題
旧暦の中秋には綱引きがあった。綱は直径が10cm、長さが50m位だった。綱は青年団の人達が編んだ。
子供達は夜の8時頃になると、家々を回ってお供え物(ぼた餅、団子、芋、栗など)を大きなかごに貰ってきて、それを分け合って食べる。T家では祝い事などのお呼ばれ以外は外で物を食べるのが禁じられていた(その頃はまだ赤痢、疫痢等の伝染病があった。)からT少年はその分け前をいつも辞退せざるを得ないので楽しくなかった。
綱引きが始まる前、声をそろえて和歌(?)を歌った。意味は分からなかったが今でも覚えている。
あ あたごまいりにーそ そでもひかれーて そらーそ そでーも あ あたーご のーごいしょや お おもーしろや のーかーたがた と歌って、二手に分かれて引き合う。勝った方はそのまま50mほど綱を引いたまま駆けて行く。3回勝負であった。
次回は「子供の遊び」です。
吉野海岸からのお知らせ
16日はビーチクリーンディーです。
作業時間は別に決めません。ゴミ袋一杯分の漂着ゴミを拾って貰えれば参加したことになります。
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