漁船座礁に思うこと

2006年10月19日

Posted by 吉野のおじさん at 23:58 │Comments( 1 )
去る16日 夕方 吉野海岸の珊瑚礁に漁船が座礁した。
昼間から吉野海岸の正面付近に停泊していた。
漁でもしているのだろうと思って気にもとめなかったが、3時半(潮が満ちてきた)頃、ゆっくりと移動し始めた。
漁をしている船だったら、漁が終わると勢いよく帰って行くのにおかしいなと思っているうちに、波に押されるように座礁してしまった。
台風18号の影響と思われる小さなうねりはあったが、時化ているというほどのものではなかった。
人が乗っていたら充分に避けられる状況であった。
にもかかわらず、座礁してしまった。
煙突から薄い煙も出ていたから無人とは思わなかった。
しかし、人がいる気配が全くない。保安庁のヘリが来たが誰も外に出てこない。ヘリもそのまま帰って行った。無線での応答もなかったらしい。

結局、船には誰もいなかった。

船は糸満船籍のマグロ延縄漁船で船長一人で操業していて、何らかの事故(マグロに引き込まれるとか)で行方不明になつたものらしい。

船長は何故一人で操業していたのだろうか?
船の大きさからみると、4、5名の乗組員がいてもおかしくない。
にもかかわらず一人しか乗っていなかった。
常識的には考えられないことである。

船長は茨城県の人で最近糸満に来てこの船を購入した。

これから先の話は私の推論である。

私はこの船長の年齢も、職歴も、漁業の経歴も知らない。
事故の処理に子供が来ていたと言うから若くはないだろう。
決して安くはない漁船を買い、マグロの延縄漁をするくらいだから漁業経歴も充分あると思われる。
また、ある意味、人生を賭してのことだから、事前調査も充分しただろう。
にもかかかわらず、一人で操業せざるを得なかった。
問題は茨城の人が沖縄の糸満でということにあるのではないだろうか。
地理的にとか、内地の人が沖縄でと言うことではない。
もしこの船が糸満の人のものだったら、船長一人で船をだすことはなかったのではないだろうか。
知らない所で人を集めるのは難しいということである。
特に生死を共にするであろう漁業船の場合、より緊密な(方言で怒鳴りあえるほどの)人間関係が求められるのではないか。
金の問題ではない。文化の同一性の問題と思われる。

これは漁業関係の事だけではない。
現在、沖縄ブームで沖縄に住みたいという人はたくさんいる。
知らないところで住むのは容易なことではない。
いわば母港を離れてよその港で操業するようなものである。
沖縄と大和には文化の違いがある。
このことを充分理解(同一化すること難しい)しないと結局は母港(心のよりどころ)を失って漂流することになる。

今回の事故はそのことを教えてくれた。

船長の奇蹟の生還を祈ります。







この記事へのコメント
吉野のおじさん:

honky_tonです。

「漁船座礁に思うこと」、私のこころにズシリときました。

座礁した船の船長さんにも、ここに至るまで、いろいろあったんだろうと察します。

方向がわからなくなったのか、燃料がなくなったのか、嵐で投げ出されてしまったのか、はたまた、なんらかの理由で船を投げ出してしまったのか。

いずれにせよ、おじさんが言うように、拠り所を見失ってしまったのだと思います。

...そして私。

私は今、東京、あるいは競争社会で「漂流」しています。

その中で、彼方に、一見オアシスのように見える宮古島を発見し、何とかたどりつこうとしています。

しかし、私にとって本当に、宮古島はオアシスなのか?

心の拠り所足りえるのか?




幸い私には、心を通じ合える「乗組員」である、家内と息子がいます。

宮古島が大好きな家内と息子といっしょに時間をかけて

宮古島は、私たちの拠り所になりえるのか

なりえるとしたなら、

どのように碇を下ろすのか


を考えていこうと思います。
Posted by honky_ton at 2006年10月24日 02:01
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