【PR】

Posted by TI-DA at


少年時代(11)

2007年12月23日

Posted by 吉野のおじさん at 19:21 Comments( 2 ) 仙人村
ご愛読有り難うございます。

仙人村には電気はないの?
 仙人村は’50年代の映画のセットではありません。仙人村には仙人達のほか大勢の人達が実際に生活していますので、電気、水道、ガス完備です。仙人村は現在の便利さ(物社会)と以前の不便さ(心社会)とをどうのように折り合いを付けて、人類(少し大げさですが)の幸福を求めていくかの実験村です。よって、地球にやさしい村でなければなりません。電気も自然エネルギーによる発電を考えています。自然エネルギー利用の発電には、水力、風力、太陽熱など有りますが、宮古島の場合、その強力な太陽エネルギーを使っての太陽熱発電も考えられますが、これは景観の点で難点(赤瓦屋根には似合わない)があります。今のところ風力発電を考えています。いまのところ、と言いますのは、エネルギー担当仙人がもっといい物を開発するかもしれません。景観と言えば、電柱も邪魔ですね。電線は地下埋設(電柱がないと寅さんの日陰がなくなるかなぁ)とします。
 宮古島は地下水が豊富ですが、飲料水としては、農業の化学肥料、農薬等による汚染が問題視されています。また、浄化するための塩素消毒も自然ではありません。これらの水が海に流出して、サンゴ等の海の自然を破壊する原因にもなっています。そこで、仙人村での農業は有機、無農薬の循環型農業を目指すとともに、水道水も各家庭に浄化装置を取り付けることにします。浄化装置は今のところもっとも有効的と思われる還元生水器を考えています。
 ガスは家畜糞尿からのメタンガスの発生装置も開発されていますが、量的な問題もあり、これもガス仙人の研究課題となります。
 次回のヒント「交通手段は?」

少年時代(11)
子供の遊び(Ⅱ)
 「缶蹴り」はかくれんぼの一種で、空き缶を所定の位置(50㎝くらいの円)におき、その缶を蹴り役が蹴飛ばし、それを鬼が拾って元の位置に置くまでの間に隠れ、それを鬼が探すという遊びで、一番最初に見つけられた者が鬼になる。また、鬼の隙を見て缶を蹴飛ばすと鬼はそれをまた拾ってきて鬼を続けなければならないため、そちらが気になって鬼の行動範囲が狭められしまうというおもしろさもあった。T少年は隠れ方の名人だった。木の上だったり、屋根の上だったり、物置小屋の屋根裏だったり、時にはそこで寝てしまい日が暮れてしまったこともある。
 「八回線」は大きなS字の線を書き、それぞれの囲いに4、5人が入り、お互い一人ずつ囲いからケンケン(片足歩き)で出て、組み合い、先に両足ついた方が負けで、相手の陣地に取り込まれてしまう。自陣に誰もいなくなった方が負けとなる。これは力勝負であるので、体の小さなT少年には不利で、あまりやらなかった。
 「模型飛行機」は、部材をセットで買ってきて、それを組み立て、ゴムのねじりの反動でプロペラを回転させてとばすもの。グライダーもあったが、こちらはより繊細で作り方が難しかった。竹籤は蝋燭の火であぶって実物大の設計図に当てて曲げるのであるが、下手すると焼きすぎて駄目にしてしまうこともあり、また、なかなか設計図通り曲げられないという難しさはあったが、うまくできると結構飛ぶので夢中で作った。できあがるとレンゲソウ畑で飛ばしっこをした。模型飛行機の名機は「スカイホーク」だった。
 「メジロ捕り」には二通りの捕り方がった。一つはとりもちを使うもの。とりもちは山に行ってモチノキの樹皮をはぎ取り、それを水をつけながらたたいていると粘りけが出てきて、かすを丁寧に取り除くとガム状になる。それを棒の先に巻き付け、先端に椿の花を挿して、メジロが来そうな木に仕掛ける(雌の入った鳥かごを近くに置くと効果的)と椿の密を吸いに来たメジロがとりもちにくっつく。というと、簡単なようであるが、一日中やっても捕れないときもあり、寒い中じーと動かずに待っているのも結構忍耐がいる。もう一つは、仕掛け(罠)鳥かごを使う方法である。これは二階だての鳥かごの上の段の天井部分を開閉式にして、鳥が入ると自動的にパッタンとふたが閉まる仕掛けである。鳥かごは真竹(孟宗竹は節間が短い)を使ってつくる。これは四兄(6才違い)が器用で、いい物を作っていた。T少年もこれをまねて作ったが、何処か歪んだりしてあまりいいのは出来なかった。  
捕ってきたメジロを雄雌別々の鳥かごにいれて近くに置いておくと、最初はぎこちないさえずりがだんだん流暢なさえずりになって来る。メジロも最近は保護鳥になって、みだりに捕れなくなった。吉野海岸の「あだんの木陰」の周りにもメジロがくるが、あの流暢なさえずりは未だ聞いたことがない。
次回は「日々の暮らし」を書きます。

吉野海岸報告
去る16日吉野海岸ビーチクリーンを行いました。
多数の参加者がありました。ご協力有り難うございました。
今回は宮古在住の家族連れが多く、子供達の歓声で賑わいました。
集めた発泡スチロールのブイ(円筒状のうき)を使っての新しい遊びが大受けでした。
次回は’08年1月19日です。新年会を兼ねて、すき焼きパーティを予定しています。
ふるってご参加下さい。

アフィリエイトにご協力お願いします。



















これはクリック報酬(ワンクリック2.5円)となっています。是非、ご協力御願いします。




少年時代(10)

2007年12月15日

Posted by 吉野のおじさん at 22:40 Comments( 1 ) 仙人村
ご愛読ありがとうございます。

「祖父と孫」
先日、図書館で水上勉の小説「故郷」と「山の暮れに」を見つけました。
水上勉の小説は陰鬱な雰囲気であまり好きでは有りませんでしたが、「故郷」のタイトルに惹かれて、ぱらぱらとページをめくるといずれも老後の「田舎暮らし」がモチーフらしい。早速借りて読みました。
「故郷」はアメリカに在住する初老の夫婦が老後をどこに住むか。主人公の女性は故郷の若狭に住みたいが、その若狭は原発銀座と言われ、田舎と都市が混在する所となり、主人は原発の恐怖から別の所をと。少女時代(戦前)の田舎の風習、家族、子供の遊びなど仙人村の参考となりましたが、相変わらず暗い(貧しさから来るもの)、仙人村では南国の強烈な日差しを注ぎ込んでまぶしいほどの明るい村を考えています。
「山の暮れ」には70歳近くになって生まれ故郷で一人暮らしを始めたお爺ちゃんと都会に住む孫(小6男の子)の交流を描いた物です。亀の話、女郎蜘蛛の話、鳥たちの話、などなど、都会の少年が自然に魅せられて祖父との田舎暮らしを望むようになると言う、まさに仙人村で考えている文化の隔世伝達のお話でした。
仙人村にはお爺ちゃん、おばぁちゃんと孫達が遊べる「お遊び広場」も作りたいと思います。
おじぃちゃんと孫がメンコで勝負というのはどうでしょうか。凧の作り方も教えればいいですね。おばあちゃんは孫娘に千代紙で折り紙を一緒に作って、童心に帰ればいいですね。
ついでにおすすめの小説をもう一つ。
三浦綾子の「銃口」です。
主人公は小学校時代の担任の先生を尊敬し、自分もそのような先生になりたいと師範学校を出て、小学校の子供達に慕われる先生になりますが、共産主義者と誤認され、数ヶ月の拘置所暮らしを余儀なくされた上、教員免許も取り上げられ、兵隊として満州に送り込まれます。さて、運命やいかに?
数日前のニュースで、小学校の先生が辞職覚悟で児童に体罰(平手打ち)を加え、その責任を取って辞表を出したが、全校生徒の引き留めで辞表は受理されなかったという話がありました。「銃口」の主人公とオーバーラップするものを感じました。仙人村の学校の先生の必読書にしたいと思います。
次回のヒントは「仙人村には電気もないの?」です。

少年時代(10)
「子供の遊び」
T少年の子供の頃の遊びは、カッタ(メンコ)、独楽回し、たこ揚げ、缶蹴り、はちかいせん、模型飛行機、メジロ捕りなどなど。
メンコには長方形と丸形があった。長方形のものはトランプより一回り小さく、義経などの武将、力士、野球選手などの絵が描いてあった。勝負は、相手方のメンコを地面におき、それを自分のメンコを地面に強く打ち付け、その風圧でひっくり返せば相手のメンコが自分のものになるという単純なものであるが、これがなかなか難しい。強すぎても一回転してしまい勝ちには成らない。
技もあった。「足かけ」は相手のメンコに沿わせて片足を置き、その足の壁に当たった風でひっくり返す技、「流し」は自分のメンコをスライドさせるように打ち込み、相手のメンコに当ててひっくり返すものである。いずれも成功率が高く、本勝負の時は禁じ手とした。
独楽回しの駒は市販の物には皿形と椎の実型があった。皿形は円内からのはじき出しを競った。椎の実型は相手の回っているコマに打ち付け、命中してなお自分の駒が回っていたら勝ちとした。手作りのコマは、堅い樫の木の丸太(直径3、4㎝、長さ5㎝)を椎の実型に形作り、棒の先に付けた紐でたたいて回すもので、これは回している時間の競争である。
メンコも独楽回しも、T少年は勝負に弱かったのであまりやらなかった。
たこ揚げは楽しかった。たこは大抵自分で作った。菱形のたこである。作り方は長短の2本の竹籤(たけひご)を十字に組み、4点の端をぐるっと縦横の竹に少しそりを持たせるように糸をはる。尻長の縦菱形になる。本体に張る紙は障子紙か大きなものは新聞紙を使い、尻尾として、幅4㎝、長さ2mの紙を下に付ける。竹籤に糸を取り付けてできあがりであるが、この糸の取り付る位置、角度が難しい。
何年か前、吉野孫(吉野海岸で出会った子供達、何百人もいる)のこうくん(5歳)にせがまれて、漂着した竹で久しぶりに作ってみた。このときは新聞紙の代わりにゴミ袋を使った。何回か糸の角度を調整したらうまくあがった。電報と言って、ちり紙を軽く糸に結わえ付けるとするすると糸伝いに凧にたどり着く。こうくんがこれをおもしろがり、どんどんやっていたら重くなったのかゴルフ場の縁の樹に引っかかって破けてしまった。こうくんが泣いて悔しがったが後の祭りだった。
今日はこれまで
次回は子供の遊びの続きを書きます。

明日(16日)は第3日曜日、ビーチクリーンディです。
午前10時から夕方6時まで何時でも参加できます。
流木磨きもいい物を沢山用意しました。
気軽に参加してハートクリーンもしましょう。
お待ちしています。

アフィリエイトよろしくお願いします。




















少年時代(9)

2007年12月09日

Posted by 吉野のおじさん at 23:51 Comments( 0 ) 仙人村
ご愛読有り難うございます。

仙人村には映画館もあります。
T少年が子供の頃(小中学生)は映画は年に一回か二回、学校から先生が引率して映画館で見た。
前の晩からわくわくして眠れないぐらい楽しみだった。
当時はまだほとんどモノクロでシネマスコープでもなかった。
その頃見た映画をラインアップすると
 時代物では「笛吹童子」「紅孔雀」(東千代助、中村(萬屋)錦之助)、クライマックスではやんやの拍手
 「千羽鶴?か原爆の子」、2歳で被曝し、白血病で14歳の時なくなった少女の物語。乞食姿の少年が「パパママピカドンでハングリー!」と物乞いするシーンが印象的だった。河原にしゃれこうべが散在していてそれを子供達が拾い集めるシーンはしばしば夢に見て悩まされた。
 「椎の実学園」 福岡に実在(創設者の園長は現在百歳を超えて現役)する障害児施設の物語、♪ぼくらは しいのみ まーるい しいのみ♪)と今でも歌える。
 「二十四の瞳」、舞台は瀬戸内の小豆島の岬の分教場、12名の生徒と女先生の物語 ♪しばしもやすまず つちうつ かじや ♪ と歌いながら12人の子供と先生が田舎道を歩いているシーンがトップだったように覚えている。
 「ひめゆりの塔」小学4年生頃だったと思う。沖縄を知りそめし初めなり。だから、今、沖縄と言うことでもないが、沖縄というキーワードがインプットされたのは間違いないように思える。
 「喜びも悲しみも幾歳月」 息子が船長している外国航路の大型客船を、夫婦で灯台の上から遠く見送るラストシーンが良かった。佐田啓二格好良かったなぁ。真剣に灯台守になろうと思った。主題歌の同名の歌は今でも時々吉野海岸の浜のゴミを拾いながら大声で歌うと元気が出る。
 当時は映画全盛時代で学校では連れて行って貰えなかったが大人になって見た映画にもいいのが沢山あった。
「羅生門」、「七人の侍」、「野菊のごとき君なりき」、「ビルマの竪琴」などきりがない。
洋画では「禁じられた遊び」「エデンの東」、忘れちゃいけない「ローマの休日」は’54年。
 やっぱり映画はいい。テレビドラマはほとんど見流しだが、映画は暗い中で完全にドラマの中に入っていける。
 仙人村にはその頃の映画を何時でも見られる小さな映画館(芝居小屋風)もあった方がいい。
子供の頃聞いたであろうおじいちゃんの昔話のつもりで、孫と一緒に映画を見たらいい。一緒に泣き、笑うがいい。そしたら、子供達は大人がどんな場面で泣き、どんな場面で笑うか知ることが出来る。喜怒哀楽を共有することは人間の絆にとって大事なことではないかと思う。
 次回のヒントは「藁葺きの家もいいなぁ」

少年時代(9)
子供会の行事
 子供会(小中学生)の行事は正月七日の夜の「おねっきょ(どんどやき)」で始まる。これは、部落中の門松や注連飾りを集めて焼くもので、この火で焼いた餅を食べると無病息災に一年が過ごせると言う。子供達は朝から門松を集めたり、柱になる高い木を切り出したり、それらを櫓(やぐら)に組んだりして準備する。櫓は平屋の家の高さぐらいになる。準備が出来ると二手に分かれて戦争ごっこになる。石を投げ合ったり、青竹でたたき合ったり、結構荒っぽい。時々けが人も出ることがある。夜になって、櫓に点火されると家の火事ほどの迫力があり、とても餅を焼くほどには近づけない。少し下火になって、銘々が長い竹に刺した餅を焼く、下手するとぽろっと落ちたりするので刺し方に工夫がいる。火力が強いため中まで焼くと外側は黒こげになってあまりうまくなかった。だから、虚弱体質だったのかもしれない。
 夏は盆相撲大会があった。旧暦のお盆(旧7月15日)の夜に行われる。その2週間位前から毎晩稽古がある。自慢ではないが、運動音痴でチビのT少年は稽古を含めて勝ったという記憶がないが、運動会ほどいやではなかった。ただ、褌の色が他と違って、T家のは黄色だったことが恥ずかしかった。と言うのは、褌は普通の家では6尺(約180cm)の白の晒しだったが、T家の場合、父親が弓の御前試合の時着ける鎧装束の帯が黄色く染められていて、それを子供の相撲の褌に使っていた。ちなみに父の弓道は薩摩日置流といって、片膝立ちで射る流儀で、東京オリンピックのオープニングアトラクション(父はすでに亡くなっていたが)にもなった。明治の人として天皇崇拝の篤かった父が陛下の前で着ける物を子供の褌にするのはちょっと腑に落ちないが、意外と合理主義者だったのかもしれない。
 閑話休題
 旧暦の中秋には綱引きがあった。綱は直径が10cm、長さが50m位だった。綱は青年団の人達が編んだ。
子供達は夜の8時頃になると、家々を回ってお供え物(ぼた餅、団子、芋、栗など)を大きなかごに貰ってきて、それを分け合って食べる。T家では祝い事などのお呼ばれ以外は外で物を食べるのが禁じられていた(その頃はまだ赤痢、疫痢等の伝染病があった。)からT少年はその分け前をいつも辞退せざるを得ないので楽しくなかった。
綱引きが始まる前、声をそろえて和歌(?)を歌った。意味は分からなかったが今でも覚えている。
あ あたごまいりにーそ そでもひかれーて そらーそ そでーも あ あたーご のーごいしょや お おもーしろや のーかーたがた と歌って、二手に分かれて引き合う。勝った方はそのまま50mほど綱を引いたまま駆けて行く。3回勝負であった。
次回は「子供の遊び」です。

吉野海岸からのお知らせ
16日はビーチクリーンディーです。
作業時間は別に決めません。ゴミ袋一杯分の漂着ゴミを拾って貰えれば参加したことになります。
お気軽に参加して、静かになった吉野の浜を楽しみましょう。

アフィリエイトにご協力お願いします。






















少年時代(8)

2007年12月05日

Posted by 吉野のおじさん at 21:25 Comments( 2 ) 仙人村
ご愛読有り難うございます。

仙人村には学校もあった方がいいな。
仙人の家には子供や孫もいます。山村留学の子供もいます。だから、学校も必要です。
短期に学校を休んで仙人村に滞在する子もいます。心配なのは帰ってから授業について行けなくなることです。ご心配なく、仙人村の学校ではその子が通っている学校と連絡を取り合い、休んでいる期間何を教えたらいいかを把握して本の学校に帰っても困らないようにします。稽古事、部活等のブランクは、仙人村にはその道のエキスパートがそろっていますのでご心配なく、むしろ腕を上げるかもしれません。
 病欠、不登校等でそれまであまり学校へ行っていない子には、それまでの分を個人的にフォローしながら、徐々に本来その学年で学ぶべき内容にすりつけて行くようにします。私も不登校の経験があります。もしこれがなければ私は別の人生を歩んでいたかもしれないと思うほど、人生を左右することではないかと考えています。さらに、障害のある子供には、農業等の物作りを体験しながら、自立を促す教育を考えています。
 今、教育問題が大きくクローズアップされています。この解決策を見いだすことが仙人村創成の最大の目的です。
と理想的なことを考えていますが、これを実現するためには皆さんの叡智が必要です。是非、知恵を貸してではなく、持ち寄って子供達のためにこの理想を実現しましょう。
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 為さぬは人の 為さぬなりけり(上杉鷹山)
そうそう、校舎は、映画の「二十四の瞳」に出てくる、岬の分教場風の木造建物を考えています。
次回のヒントはは「映画館もあった方がいい。」です。

少年時代(8)
父の死
T少年の父は昭和32年、庭の梅が二三輪ほころび始めた2月になくなった。少年が小学6年生の冬だった。
T少年にとって父の死は唐突であった。父はその何年か前、脳卒中で倒れ、その後、寝たり起きたりで急に亡くなったのではない。身近な人の死に直面したのが初めてだったと言うことである。おおかたの人は、先に祖父母の死に目に合い、身近な人が死ぬと言うことが自分にどう関わってくるかを知り、父母の時は悲しみがより一層深くなるのではないか。
父が息を引き取ったときもさほど悲しみはなかった。当時の埋葬はまだ土葬で座棺だった。父は座禅をやっていてお棺には座禅の姿勢で少し窮屈そうに納められていた。墓地は家から400mほど離れた岡の上にあった。葬列は晒で作っ裃袴の白装束の長男の後に、晒しの長い頭巾をかむった弟たちがそれに続いた。坂の上からしたを見たら葬列は家の近くまで続いていた。少年はその人の多さに気を取られていた。埋葬地はあらかじめ2mほどの深さの穴が掘られていて、お棺が縄でおろされ、親族のものが土塊を投げ入れて、お別れをする。その時、少年は、二度と見ることも、ふれることもない、父との別れを実感したが、涙は出なかった。翌日から、毎日、お墓に行って父と話した。普段はトイレに行くのにも一人では怖くていけない(これは、兄たちにトイレの怖い話を聞かされていたのが原因)ような臆病者であったが、お墓へは暗くなってからでも行けた。2ヶ月近く通った。人は死んでも話は出来ると言うことを知った。今でも時々父と話をする。父はいつも「よか。よか。(いいよ。いいよ。)」と大抵は許してくれる。
 少年が生まれた昭和20年の8月、戦争は終わった。父は郵便局長をやっていたが、敗戦で公職追放となり、郵便局長を長男に譲り、隠居同然の身になった。さらに3年後には農地改革で大方の田畑を失い、失意のうちにこの世を去った。
 丁度五十年前の事であった。少年も父の年になって、失意のうちに逝った父の無念さが分かるような気がする。

 次回は「子供会の行事」を書きます。

吉野海岸からの
12月16日(日)はビーチクリーンです。
作業時間は特に決めないで、何時でも来てゴミ袋(45㍑)一杯のゴミを拾っていただければ参加したことになります。
お気軽に参加してください。

アフィリエイトをよろしくお願いします。























少年時代(7)

2007年11月30日

Posted by 吉野のおじさん at 23:42 Comments( 0 ) 仙人村
ご愛読有り難うございます。

 仙人村は国際交流の場でもあります。
 仙人村での農業はECOSAS(エコサス=地球に優しい誰にでも出来る農業システム)による有機農業とします。
有機農業は環境問題や健康問題等の点から、世界中の人が関心を持っています。
現在、私は宮古島でWWOOF(Willg WorkS On Organic Farms 興味のある人はWWOOF Japanで検索)のHost(有機農場で働く人の宿)をやっていますが、世界中の若者から問い合わせがあります。
 仙人村の農業の仙人宿をこのHostとすれば、多くの外国人をウーファーとして受け入れることが出来ます。また、外国人のウーファーのほとんどが日本文化に興味を持っています。仙人村で多くの、本物の日本文化を見たり、体験することはウーファーにとって貴重な事ではないかと考えています。
 仙人村の仙人には外国人も居ます。たとえば、イタリア料理の仙人がオーガニック野菜を使ってのイタリアンレストランを開くというのはどうでしょう。スタッフも全部イタリア人、オーダーもイタリア語で出なければ通じない。こんな風な、フレンチレストラン、中華飯店、韓国料理店、オリオンビールのビァーガーデン、ドイツ人のソーセージ屋などなど。仙人村で世界中の一流の料理が食べられる。わくわくしませんか?
 
少年時代(7)
T少年は運動会が嫌いだった。
小学の高学年になっても鉄棒の逆上がりも跳び箱も跳べないほどスポーツ音痴だった。
その上、みんなと合わせて行動することが苦手だった。「右向け右」と号令されても左を向いて、何回もやり直しをさせられた。今では吉野海岸でブレスレット作りを教えるとき、子供達に「右左が分かれば出来る」など偉そうに言っているがと子供の頃はそうだった。これでは、運動会が楽しいはずがない。運動会の前の晩は、ただひたすら「明日雨になれ」と祈った。がその甲斐もなく大抵(運動会は11月3日の文化の日と決まっていて、一年中で一番晴天の確率が高かった。)どんぴしゃりの晴天だった。仕方なく、出かけた。もちろん選手でもないので、出場するのは、徒競走と玉入れなどの団体競技だけである。団体競技はまあ何とかなるが、問題は徒競走だ。入場の時から心臓がどきどきとして逃げ出したい気分だ。それでも、いざスタートすると大抵一番だった。にこにこしながらゴールした。今だったら、Vサインをしながらだろう。ただし、回れ右しての話ではあるが。
お袋が「徒競走で一番後ろからゆうゆうと走って来る子を見て、あの子にも親はいるだろうにと思っていたら我が子だった」と嘆いていた。と言うことで一回も泥棒みたいに追っかけられたことはない。いや、一回あった。何年生の時だったか忘れたが、障害物競走で本当の一番になった。最後のネットくぐりの時、大きい体の子の後ろについていったら、小さい体でするすると抜けられた。前には誰もいなかった。万歳!
 そんなことで、お袋はいつも「おまいは覇気がない」と言っていた。「覇気」を辞書で調べてみたら、「他を圧する気性」とある。この世の中、みんなが覇気を持っていたら大変だ。少年のまま大人になったT少年は今でも争いごとは嫌いだ。戦争は嫌いだ。 
 運動音痴の少年少女諸君、徒競走がビリでも悩むことはない、ビリがいなければ1番はいないのだ。一番にしてやっていると威張るがいい。他のことでは逆もある。大人になればノープロブレムだ。
 今回はこれまで
次回は「父の死」を書きます。




少年時代(6)

2007年11月28日

Posted by 吉野のおじさん at 23:11 Comments( 0 ) 仙人村
ご愛読有り難うございます。

 何故仙人村には108人もの仙人が必要なのか?
 旧約聖書の創世記にあるノアの箱船には8人の家族とあらゆる種類の動物がつがい(雄雌)が乗っていたとされますが、果たしてそれだけでしょうか。私はそのほかに、あらゆる農作物の種子(たね)も積み込まれていたと思います。また、、それを栽培するひと、その栽培に必要な道具を作る人、家畜を飼う人、保存のため加工する人のほかに、教育者、芸術家、聖職者など、人が健全な社会生活をする上で不可欠のあらゆる職業の選ばれた人(選人=仙人、ちょっと強引?)達が乗っていたと想像します。
 今の子供達には果たして職業選択の自由が有るのでしょうか。
経済的に豊かで有ることが子供にとって幸せなのだという勝手な親の価値観、あるいは見栄から、その子の資質とは関係なく受験戦争に駆り立て、早い時点で理系か文系かの選択を迫り、職業選択の範囲を限定してゆく。子供はそれに従わざるを得ません。なぜなら、子供達は世の中にどういう仕事が有るか知らないからです。その結果が今の世の中(心身ともに健全と言えない)を作っているのです。
 人は何のために働くのでしょうか。
生きるためです。心身ともに健全な社会生活を送るためです。
生きるためには働かなければなりません。心身ともに健全に働くためには自分にあった仕事につければいいと思います。
そのためには、子供の時から世の中にどういう仕事があるのか知っている必要が有ります。
冒頭にノアの箱船のことを出したのは、人が心身ともに健全に生きるためには多くの職業が必要だと言うことを言いたかったのです。
「仙人村」では、子供達には世の中にはいろいろな仕事が有り、その中で自分が何に興味を持っているか発見して貰い、また、親たちにも、仙人達が真摯に働く姿を見たり、話を聞くことによって職業に貴賎がないことを理解して貰いたいため108人(数にはこだわらず出来るだけたくさんのという意味)の達人が必要と考えました。

また、今、たくさんの物作りの技術や知恵が失われようととしています。人類はこの技術、知恵を得るために何千年何万年もかかっています。そして、ついこの間まで連綿と伝えられ、使われてきた物です。
たとえば、吉野海岸のコミュニティ広場「あだんの木陰」の囲炉裏には自在鉤が掛かっています。日本昔話にしか出てこないような、今はほとんど見かけなくなったものです。若い人はほとんどその仕組みを知りません。戦前にはどこの家庭にあった物です。これは中国から来たのか、日本人が考え出したものか分かりませんが、相当古い時代からあったものではないかと思われます。今の若い人はその仕組みが分かりません。知らなくても不便では有りません。しかし、その先人の知恵を知ることは生きていく上で何か意義が有るのではないでしょう。
この技術や知恵を残すことは、今を生きる我々の責務ではないでしょうか。
出来るだけ多くの物を残すため、出来るだけ早く(技術や知恵を持った人が減っていく。)、「仙人村」を作らなければと考えています。

 少年時代(6)
T少年はいじめられっ子だった。
と言っても今の子供達のいじめに比べたら、それがいじめだったのかちょっと疑わしい。
別に転校したわけではないが、小学校6年生のとき新しい学校(段階の世代を迎えて、生徒数が増えたため二つの学校になった。)に通うことになった。校舎も新しく鉄筋コンクリートの2階建てである。
気分一転、T少年も明るく元気に通っていた。ただ、街中を通らないため寄り道の楽しみが少なくなった。
とある日、何が原因だったか忘れたが、2、3人の同級生に寄ってたかってこづき回され、机に顔をぶっつけられ、眉の端が切れて血が流れた。これには友達がびっくりして逆に先生を呼びに行った。養護の先生が駆けつけて来た。若くてきれいな女先生である。応急処置をして、近くの病院におんぶして連れて行ってくれた。痛さなど忘れて、天にも上る心地だった。その後、友達が先生にどういう叱りを受けたのか知らないが、病院から帰ってきたら、「ご免と」と謝ったので仲直りをした。
 そして、中学2年生の時だった。ある日の昼食時間、弁当(小、中学校を通じて給食はなかった。)を食べ終え教室で遊んでいると番長(?)の取り巻きの一人がちょっと来いと呼びに来て、講堂の裏に連れて行かれた。そこには、同級の番長のほかもう一人いて、番長がいきなり「おまえは生意気だ!」と、胸ぐらをつかんで頭を拳固でポカッと殴り、他の二人も、押さえつけて、頭や腹を殴った。T少年は無抵抗だった。体も小さく、それまで取っ組み合いの喧嘩もしたこともなかった。喧嘩しても勝ち目はないと思っていたが、悔しかった。そして、泣いた。午後の授業が始まったが、そのまま、そこで泣き続けていたら、10分ぐらいして、他の友達が担任の先生を連れてきた。先生は私を抱くようにして教室に連れて行き、席につかせると、みんなに向かって、普段の声で「Tを殴ったのは誰だ?、やった者は前に出てこい。」と言った。教室はしーんとなった。と、番長がおずおずと前に出てきた。それに連れて他の二人も前に出てきて、みんなの方に向かって3人並んで立った。先生は「よし、素直に出てきたところは反省していると言うことだな。何故殴った言え。」というと、番長が「Tが英語の時間にふざけて、授業の邪魔ばかりしているので、生意気だと思って殴りました。」とぼそぼそと答えると、先生が「だからといって、殴っていいということでもなかろう。Tの痛みは自分も殴られて見ないと分からないだろうから、T、おまえ、この三人を自分が殴られたように殴れ。」と言った。
Tはそう言われて、一瞬、ファイティングポーズとって格好良く殴っているところを想像したが、到底自分に出来ることではない。
前に出て三人の前に立つと、番長が「堪忍な(ご免なさい)」といって、顔を突き出した。Tは「もうよか(もういい許すと」といって席に帰った。何故か、教室は万雷の拍手だった。その後、番長とは一番の友達になった。3年生の時にも同じクラスで硬軟のコンビでクラスを盛り上げることになった。
卒業してずーと後に、風の便りで、番長は商船学校にいって外国航路の船長をしていると聞いた。ナイスなキャプテンになっただろうなと思った。

アフィリエイトをよろしくお願いします。
転職を考えている人もそうでない人も、ワンクリックで世の中が分かります。





















少年時代(5)

2007年11月26日

Posted by 吉野のおじさん at 00:54 Comments( 0 ) 仙人村
ご愛読有り難うございます。

仙人村の仙人は108人です。
108と言う数字で思いつくのは除夜の鐘、すなわち、煩悩の数です。
ここではもう一つの意味を持たせました。
中国に「水滸伝」という物語があります。
中国の北宋の末期(12世紀初め)に108人の英雄好漢が梁山泊に集まり、汚職官吏による悪政をただし国家を救うことを目指すと言う物語です。
これを今の日本になぞらえてみました。
当時の汚職官吏に比べたら、今の官吏の汚職は、関連業者の接待でゴルフをやったとか、宿泊費を出して貰ったとか卑小なものですが、その精神構造は最悪です。もちろん、すべての官僚や政治家がすべてそうだとは言いません。むしろ、そのごく一部だと思っていますが、そういうメンタリティを持った人達が現在の日本をリードしていることも事実ですし、それを良として来たことも我々なのです。。
我々は戦後、経済的窮乏の中でただひたすら経済的豊かさを求めて来たように思います。そして、経済的には豊かになりました。でも何かが置き去りにされてきたように思われます。
それは何か?
心の問題です。
経済優先の施政は「心」に対する悪政ではないでしょうか。現在、子供の自殺事件を初めとする悲惨な事件が多発しているのは、その結果と思われます。
また、人の物欲には際限がありません。地球温暖化という地球規模の環境破壊も人がその欲望によって引き起こされたものです。これをコントロール出来るのは「心」しか有りません。
この辺で経済的豊かさを求めるのではなく、心の豊かさを求めるような意識の改革が必要なのではないでしょうか。
仙人村では108人の仙人が集まって、「物」から「心」への意識の改革を呼びかけるものです。
意識の改革は簡単にできることでないことは承知しています。数十年はかかるでしょう。
話が少々大きく、大げさになりましたが、誰かが何処かで何時かは始めなければならないことです。

少年時代(5)
いよいよ3年生からは本校に通うことになった。
本校は街中を通って、自宅から2キロくらいのところにある。
一学年7クラスだったと思う。クラスには分校で一緒だった友達は数名しかいない。
内気で無口なT少年はまたまた途方に暮れる思いであった。
幸いに担任が分教場にいた女先生であったのでなんとか学校に通うことが出来た。
このころの学校での授業の様子はほとんど覚えていない。いや、習字の時間にいたずらして友達と一緒に教室の外に出されたとき、教室の床下に潜り込み床板の隙間(当時の校舎は木造で、多分明治の頃の建物で隙間だらけだった。)から土埃を跳ね上げられて、女先生に平手打ちにあったことは覚えている。
その頃に一番の楽しみは放課後帰宅途中の寄り道であった。
自宅までの帰り道には好奇心をくすぐるようなものが沢山あった。もっとも、気に入ったところは、鍛冶屋である。
この鍛冶屋は、兄弟でやっており、弟さんが向槌を打っていた。
真っ赤に焼いた鉄板を兄さんがやっとこで挟み、金敷の上に乗せ、それを弟さんが大ハンマーでとってんかってんと打って、時々兄さんが片手ハンマーで拍子をつけるように相槌をいれる。
鉄がさめて来ると、炉に突っ込んでふいごを踏むと火力が増して、瞬く間に真っ赤になる。
刃物の場合、刃の部分に鋼(はがね)をはさみ全体を薄くのばしながら形を整え、最後に水にジューとつけて焼きを入れる。
いつまで見て居ても飽きない。そのうち、回転砥石で錆落としなどもさせて貰った。
今の学校では「鍛冶屋」という小学校唱歌は時代に合わないと言って歌わないそうだ、何か寂しい。
つぎに、おもしろいのは建築現場である。そのころ、家で離れ家を造ることになり、丸太の製材から家の庭でやることになった。
このときは寄り道もせずまっすぐうちに帰った。
近所のお兄さんが新入りの弟子で、毎日毎日かんなやのみなどの道具を砥石で研いでいた。それを飽きもせず、毎日毎日見ていた。そのお兄さんは時々研ぎ方が悪くて親方に拳固を食らっていた。頭領は腕がいいという評判で、どう腕がいいのかわからなかったが、かんな掛けはかんなくずがまっすぐ上にのぼって見事なものであった。
左官屋は同級生のお父さんで、見事な職人技を見せて貰った。また、壁土を足で踏んでこねたり、漆喰ののりを溶かす手伝いをしたりして楽しかった。
このほか、靴屋、飴屋、桶屋などを覗いたり、農作業の手伝い(?)をしたりと校外学習には事欠かなかった。
今、不思議に思うことは怒られたことがなかったと言うことである。当時は悪いことをすると親でもない大人の人も子供を叱ってくれた。思うに、物作りの職人は物を作っているときはほとんど無心に作業をしているので、眼中にないのかもしれない。あるいは、自分の仕事に自信があるから人が見ていても平気なのかもしれない。
この遊びはほとんど一人だった。近くに同級生もいたのだが一緒という記憶はない。「キュウリ事件」があってから、あまり連むのを無意識に嫌ったのかもしれない。
そして、このころ、勉強したという記憶はほとんどない。宿題もなかったような気がする。もちろん塾もなかった。
勉強のことでただ一つ覚えているのは、算数のかけ算の九九をなかなか覚えきれないで兄達に馬鹿にされたことである。
でも、小学の高学年や中学生の頃は決して悪い成績ではなかったので、勉強しなかった分けでもない。
学校の勉強より校外学習の方が遙かに楽しく、有益だったことは間違いない。

今日はこれまで
次回は「T少年はいじめられっ子だった。」です。

吉野海岸からの報告
去る18日、吉野海岸でビーチクリーンを行いました。
観光客を含め10名が参加しましたが、当日は午前中は風もなく真夏のような陽気で、泳ぐのに絶好のコンディション、また、午後は天気が崩れるような予報が出ていたため、泳ぎを優先しました。

次回は12月16日です。
今回は作業時間は午前10時から12時までとしましたが、次回はフリーとし、ゴミ袋(45㍑)いっぱいで参加したことになります。
是非ご参加下さい。

アフィリエイトにご協力下さい。
















少年時代(4) 

2007年11月16日

Posted by 吉野のおじさん at 23:23 Comments( 0 ) 仙人村
 ご愛読有り難うございます。

仙人村の時代背景を50年代とすることにはもう一つ理由が有ります。
日本は戦争に負けて、何もかも失いました。
戦後、5年間は茫然自失の時代だったと思います。昭和25年朝鮮戦争が始まり、特需で景気が良くなり、これによって国民は希望を保つことが出来ました。そして、昭和35年には池田内閣の所得倍増政策を発表し、高度成長(物の豊かさ、大量生産)へひた走り始めました。この10年間は日本の伝統文化の残照だったのではないかと思います。
その頃は、多くの物が手作りでした。物に作った人の心がこもっていたと思います。その心が文化ではないでしょうか。
その精神文化を残し、伝えるためこの時代設定にしました。

少年時代(4)
 九人兄弟というのは先に話した。
私は8番目、男では6番目である。長兄とは20歳違う。年齢差から言うと親子である。
次兄とは14歳違いであるから、私が物心つく頃次兄はすでに大人であった。
小さい頃遊んで貰った記憶はないが、他の兄弟には怖い存在だったらしい。
 私が2年生の頃次兄は東京へ出た。代議士の秘書をやっていたらしい。
選挙や何かで時々帰省した。三揃えのスーツを着て、ピカピカの革靴をキュッキュッとならしながら颯爽としていたのを覚えている。土産は大抵児童書だった。「家なき子」「怪盗ルパン」「十五少年漂流記」「海援隊長坂本龍馬」などなど、おかげで本を読む楽しさを知った。
 私が小学4年の時、次兄はアルゼンチンに移住することになった。
アルゼンチンまでは船で一ヶ月以上かかるという。寄港地から時々手紙が来た。世界地図を広げて寄港地に印をつけていって、不思議に思うことがあった。地図の上で見ていると香港、シンガポール、カルカッタ、ケープタウンと反対の方に進んでいる。
学校で地球儀を見ると、アルゼンチンはちょうど地球の反対側で、南米大陸の東海岸(ブラジルのリオデジャネイロ、アルゼンチンのブエノスアイレス)に行くためには西回りの方が早いことが分かった。世界の広さも知った。
 次兄がアルゼンチンに行ったことは私に大きなインパクトを与えた。大きくなったら自分も行こうと思った。高校生になったとき、兄に何回もその旨手紙を書いた。そのたびにもう少し落ち着いたら呼ぶという返事だった。
というのは、そのころ、最初入植した土地が農業に適しないような荒れ地(最近ドミニカ移民で問題になっているように詐欺紛いの土地斡旋が多かったらしい。)で、何年かそこにいたが、結局、そこをあきらめ、ブエノスアイレスに出て別の仕事をしている時で、とても呼べるような状況ではなかったらしい。それでも私は諦めなかった。結婚した時点(25歳)でもそのつもりだった。
 そして、時が過ぎた。
 兄が二十数年ぶりに帰国した時、成田へは私が迎えに行った。小さい頃の私の顔しか知らない兄は気づかなかったが私はすぐ分かった。小さい頃のイメージと少しも変わらなかった。
 その後何回か帰国した。何回目の帰国の時だったか、二入で車で田舎(鹿児島)に行くことになった。
その時初めて兄とゆっくりと話をした。兄は日本のこと、特に農業のことを憂えていた。日本を離れているからかえってよく分かると言う。兄は希有壮大で、他の人が聞いたらまた大風呂敷を広げてと言うことになるが、私はそうは思わなかった。
農業の話から、宮古島(私の妻の出身地)の農業の話になって、パインが出来ないというと、それならブドウがいいと言う。
私はその時まで、ブドウは寒いところにしか出来ないと思って、そう言うと、昔はそうだったが最近ブラジルで日本人の学者が発芽をコントロールする技術を開発し、今ではブラジル、東南アジアなど暑いところで栽培されているという。
 兄はその頃アルゼンチンのメンドーサでワイン用のブドウ園を経営していた。
宮古島でもブドウが出来るというを聞いて、もし宮古島でブドウが出来ればと思い、兄に宮古島に行って貰うことにした。
兄は宮古で調査し、関係者に会い、土壌的に問題があるがそれは技術的に解決できることで反っていい物が出来るかのしれないと言うことであった。
 その頃、私も宮古島の活性化を考えていた。兄も出来れば日本で人生を全うしたいと言う。では、二人でやろうと言うことになった。
 その時は、それでアルゼンチンに帰っていったが、私はプラン(30年後の宮古島)を作り始めた。
兄はアルゼンチンで日本人会の代表として、天皇陛下をお迎えすることになっており、それが終わったら帰国することになっていた。 
 そして、先発としていよいよ単身宮古島移住を決心し、その報告を志木(埼玉県志木市)の姉の家に行っている時、鹿児島の長兄から次兄が死んだという連絡が入った。
 呆然自失。が、ことここに至って引き返すことは出来ない、予定通り単身宮古入りした。
そして、10年が過ぎた。「仙人村」は私がその時プランニングした宮古島活性化の第一ステップである。この10年間はその準備期間であった。
 個人の歴史でも”もし”はないが、もし、この兄が居なかったら、私は別の人生を送っていただろうし、宮古島の名すら知らなかったかもしれない。あの時点での兄の死は私への最大のバックアップであり、それがなければ、今頃はギブアップして宮古島にいることはなかったと思う。
 兄は今も我が胸にあり、常に私を励ましている。

次回はいよいよ少年は本校に行くことになります。
乞う ご期待

アフィリエイトよろしくお願いします。
 
























少年時代(3)

2007年11月12日

Posted by 吉野のおじさん at 01:16 Comments( 0 ) 仙人村
 ご愛読有り難うございます。

 仙人村の時代背景は1950年代(昭和25年~昭和35年)とします。
唐突ですが、人は生物学的には母親のお腹の中で十月十日かけて進化の過程を経て生まれてきます。
しかし、人間社会を構成する人として成長するためには、社会的進化の過程を経なければなりません。
社会的進化は学習(親の躾け、遊び、教育など)によって成されます。学習の中でも遊びによる体験(精神的経験=人間関係を含む)がもっとも重要ではないかと考えます。
ところが、現在はこの遊びによる体験をする機会が極端に少なくなっています。最近の子供のいじめ等の問題も、原因はこの辺にあるのではないでしょうか。私の少年(小学生、中学生)時代にも、いじめは有りました。しかし、それは社会(大人の世界にもいじめはある)学習のうちと言う程度のものだったように思えます。
 吉野海岸で遊んでいる子供達は生き生きとしています。子供の遊びは人の本能だと思います。
私の少年時代はテレビもゲームもありませんでした。子供は遊びの中に人としての社会的進化の学習が出来た時代でした。
 「仙人村」は子供達が本能のままに(もちろん大人の寛大な見守りの中で)遊べる場所を提供するものです。私の少年(小学校、中学校)時代である昭和25年~昭和35年(1950年代)を時代背景とします。
 以上、今回のヒント

少年時代(3)
<馬の薬殺事件>
 季節は、小川の土手に彼岸花が咲いていたような気がするから秋だった思う。
 分教場の近くに家の田んぼがあって、ちょうど私が帰るところに、農作業を終えたやっさん(下男)が馬を曳いて通りがかったので、馬に乗っけて貰うことにした。気持ちよく(?ー裸馬なのでバランスとるのにたいへんだった。)のっていたら、小川にさしかかったところで、馬に水を飲ませるから降りるように言われた。
少し勾配のある土手(高さ1.5m位)を降りたところにあり、馬はそこまで降りなければならない。降りるのは簡単に降りたが、戻ろうと土手に前脚をかけてあがろうとしたとき、滑って前脚を折って転んでしまった。やっさんが必死になって、励ましても立ち上がれない。仕方なく、やっさんは泣きながら(当時やっさんは17歳位)家(家まで500m位)に行って、次兄(22歳位かな?)を連れてきた。次兄は状況を見るなり、「こや たっちゃがれん うんまんいしゃをよでこにゃいかん(これはもう立ち上がれないから獣医を呼んでこなければいけない)と駈け出していき、2時間位して獣医を連れてきた。獣医も「こらやっせん ころすしかなかなぁ(これはもうだめだ ころすしかない)といい、鞄から大きな注射器を取り出し、それで馬に注射した。馬はすぐに死んだ。私は泣きながら、次兄に「うんまは まだいきっとっとに なしけころさにゃいかんとを うんまがぐらしかを(馬はまだ生きているのに何故殺さなければならないのか 馬が可哀想ではないか)」というと、次兄は馬は脚が折れて転べば自分では立ち上がれない、もし立ちあがられても歩けないから、可哀想だから殺すしかないとといった。次兄も泣いていた。
 当たりはもうすっかり暗くなっていた。その夜は、やっさんは馬のそばでたき火しながら夜を明かした。そのとき墓地の方でふわりと飛ぶ人魂をみたそうな。
 死んだ馬は、翌日、荷馬車でと殺場に運んだらしい。
 その日の夕方、小屋の後ろで次兄とやっさんの声がするので、行ってみると、七輪で肉を焼いて食っていた。私のすすめられたが手が出なかった。やっさんは次兄に「こや くようじゃっで くわなにゃいかんど(これは供養だから食べなければならない)」と言われて泣きそうな顔をして食べていたのを覚えている。
 その頃は父も健在だったし、他の兄弟も家にいたはずなのに、そのときの記憶には一切残っていない。それだけ、ショックが大きかったのかもしれない。
 そういえば、やっさんはいつ頃まで家にいたのだろう。ずいぶん可愛がって貰ったのに覚えていない。小屋にあった下男部屋に「平凡」か「明星」が置き去りにしてあったのは覚えている。
 その後、やっさんとは次兄が帰国(アルゼンチンから)した時、広島のやっさんの家を訪ねて30年ぶりに再会した。涙、涙の再会であった。
 やっさんは家を出た後、九州の炭坑を渡り歩いたらしい。やっさんの弟と一緒の炭坑にいて、弟は炭鉱事故でなくなり、やっさんもその事故に遭ったが九死に一生を得たということだった。今は(再会した頃)は、広島の工場で働き、りっぱな家も建て、ある宗教団体の幹部になって幸せな生活を送っているということで、次兄と大いに喜んだものでした。
 今日はこれまで

次回は、今日の話で出てきた次兄とのことを書きます。
もし、この次兄がいなければ、今私が宮古島にいることは絶対になかったと思います。いや、宮古島と言う名さえ知らなかったかもしれません。
 その訳は? 次回をおたのしみに










 






少年時代(2)

2007年11月09日

Posted by 吉野のおじさん at 19:07 Comments( 0 ) 仙人村
 ご愛読有り難うございます。

 少年時代の思い出の記は長くなりそうです。
 回ごとにヒントを出します。それによってイメージを育ててください。

「仙人村と吉野海岸の関係」 これもヒントになります。
 吉野海岸での活動が8年になりました。
 以前にも書きましたが、私が宮古に来た目的は、30年後の宮古島の街造りに有ります。
宮古に来る前は埼玉県で事務所を持って街造りに携わっていました。その頃は、時代の要請とは言え、散々自然破壊型の街造りをやってきました。
宮古では自然を護ることによって地域を活性化することでいい街造りすることを構想して宮古に来ました。
 吉野海岸では、自然を護ることが活性化につながると言うことを実証すると言う思いでやってきましたが、行政との考え方の違い(行政は住民のその日の暮らしが優先、自然保護は二の次)から、現状のような有様になりました。
 このことは、地域が活性化していなければ自然は護れないということを教えてくれました。
食うためには自然を壊しても仕方ない、観光客が自然を護りたければ仕事を呉れ言うことになります。
自然保護が先でなく、活性化が先ということです。
 だからといって、吉野海岸でやっていたことが失敗だった訳ではありません。
むしろ、大きな成果を上げることが出来ました。吉野海岸での8年間があったから、「仙人村」の実現の可能性が出来たのだと思います。
 また、吉野海岸を撤退するのでもありません。これからは清(ボランティア活動)経(収益事業)分離することによって、私は「吉野の仙人」して、吉野にいる時間がより長くとれることになります。
 ということで、吉野海岸を護るためには「仙人村」の実現が不可欠です。
それも、宮古全体の活性化を図れるようなダイナミックなものでなければなりません。
そのため、仙人村の規模は面積を100ha(大きめのゴルフ場)程度とします。
 
少年時代(2)
 小学校は1、2年生は分教場だった。分教場というとなんか山奥の僻地というイメージがあるが、私が通った分教場は田んぼの中にあった。何でも、伯父が娘を遠くの学校に通わせるのはかわいそうだと言って土地と建物を寄付したのだそうだ。各学年1クラスの小さな学校です。
 さて、いよいよ一年生。幼稚園には行かなかった(多分近くになかった)ので、そういう生活は初めてです。家では兄弟が多かったので縦の人間関係は理解できたのだが、同じぐらいの子供がうようよいるのにどう対応したらいいのか分からなかった。
入学早々に登校拒否である。最初は母親が泣き叫ぶのを無理矢理引っ張って連れていっていたが、あきらめたのか、父親が行きたくないのを無理にやるな(2月生まれで、体も小さかったから可哀想と思って)と言ったからなのか、何も言わなくなった。   毎日、チビ(柴犬の雑種の飼い犬)と自然の中を駆け回って遊びほうけていた。結局一学期中はほとんど登校しなかったように思う。
 夏休みは大手を振って遊べると喜んでいたら、麻疹にかかり(暑い夏の最中、蚊帳の中で寝ていたのを覚えている。)二学期も半分は学校を休むことになった。
 どういうきっかけで学校へ行くようになったかはよく覚えていない。多分、やっと学齢(誰が、4月生も翌年の3月生も同じ学年ときめたんだ!)に達したのでしょうね。休んでいる間勉強はどうしていたのか、兄たちに劣等児扱いされていたところを見ると、ほとんどしなかったんでしょうね。でも、ご心配なく、入学時に半年のブランクはあったが、6年生の時には自分より早く生まれたものにも負けないようになっていた。ただし、体育を除いて。半年間の自然との遊びがよかったのかもしれない。

 分教場時代に鮮烈に残る思い出が二つある。
 一つはキュウリ泥棒事件です。
 季節はキュウリのできるころだから夏だったのだろう。学校の帰り、友達といたずらから余所の畑のキュウリを取った(盗むという感覚はなかったように思う)。
夜、畑の持ち主のおばさんが来て謝らせられた。母も謝った。おばさんが帰ってゆくと、母親が私を抱きかかえて外に転がした。外は雨だった。その雨の中、母は私をごろごろと転がした。私は口では「もう、せん(しない)」といいながら、これだけのことにと言う反抗心もあり泣かなかった。ところが、それが終わって、風呂場で母親が濡れた猿股(パンツ)とランニングを脱がせながら、母がぼろぼろと涙を流した。これには参った。私も大声で泣いた。自分が母親を泣かすような悪いことをしたのだと気づきた。男の子は母親の涙に弱いのである。私の上には五人の兄達がいる。その点、百戦錬磨の母親は男の子の泣き所を心得ていたに違いない。
 世のお母さん方に、子供を躾けるには、百回の尻叩きより、母親の一滴の涙が効果が有ることを教えましょう。大いになきなさい、それが子供への愛情の証なのです。
 そうそう、母親の涙で思い出すことがもう一つある。
 父と母はよく、と言うほどでもなく、時々でもなく、たまに夫婦喧嘩をやった。父は新婚(再婚)当時、母が作った料理の味付けが気に入らないとお膳をひっくり返すほどの剛の者であった。夫婦喧嘩は大立ち回りをやるわけではない、そこはまだ封建社会の名残の色濃い、薩摩の地。男尊女卑が厳然と残っいた。母は父に叱られると涙を流しながら俯いて嵐が過ぎるのを待っていた。決して、口答えはしなかった。薩摩には目上の人に対して「議(口答え、理屈)をいううな」と言う言葉がある。
父は言うだけ言うと、最後に「出て行け」となる。母は待っていましたとばかりに、私を連れて出て行く。必ず私である。
母の実家は歩いて20分ぐらいの所であったが、それでも、そういうときは、実家には帰らなかった。後で考えると、行く先はいつも決まっていた。庭続きの生け垣に囲まれたミカン畑である。冬でも風がなく寒くはなかった。しばらくすると父が来て、「こどんがさんかでもどれ(子供が寒いから家に入れ)」という。ときには、隠れる場所を変えると、父は気弱げに「おーい、おーい」と呼んで探し回る。
こうなると、完全に母の勝ちである。私はそのための人質であったのかもしれない。「負けるが勝ち」明治女の知恵である。
 夫婦喧嘩のご参考にどうぞ。

もう一つの事件は「馬の薬殺事件」です。
次回 乞うご期待

 「仙人村」イメージは如何ですか?
 かえって分からなくなったかもしれませんね。



  



 









少年時代(1)

2007年11月07日

Posted by 吉野のおじさん at 23:19 Comments( 0 ) 仙人村
 仙人村の話をする前に私の生い立ちをお話ししましょう。
敗戦直後で大人達には大変な時代だったと思うが、私は幸せな(と自分で思っている)少年時代を過ごすことが出来た。
その少年時代の社会環境を今の子供達に伝えたい思いで仙人村を思い立ちました。
その仙人村が吉野を護ることにつながっていきます。この因果関係は別に書く予定です。
私の少年時代の思い出を読んでいただき、それぞれの仙人村をイメージしてください。
 イメージのヒント、仙人とは物作りの名人、その道の達人のことです。

では、我が心のふるさとへ出発

私は昭和20年2月生まれです。
九人兄弟の8番目(6男)です。
鹿児島県の北西部出水市米ノ津(熊本県との境、藩幕時代は関所が置かれていた)で育ちました。
実家からは遙か西に有明海が望めます。夕日がききれいなところでした。

家業は郵便局(特定郵便局は元々民間委託であった)でした。
父(当時50歳)は敗戦により、公職追放となり、また、農地解放で150町歩の農地のほとんどを失ったそうです。
そんなことで暇だったのか、あるいは失意で気が萎えていたのか(兄たちにはスパルタ教育)、私は父親っ子として父親に構われ(ほとんど溺愛)て育ちったらしい。一つには私が虚弱体質だったからかもしれないし、逆にそのせいで虚弱になったのかもしれない。

3歳の頃と思う、寒い冬の夜、母親に背負われて病院に行った記憶がある。空に星が沢山あったこと、父親と母親が話しながら急ぎ足で歩いていたこと、ほんの数秒間を記憶している。
大きくなってから聞いた話では、そのときは肺炎で危うく命を落としかねない状況だったらしい。

そのころはまだ封建時代のなごりで、父親の食事は別メニューであった。
魚も家族は鰯のときでも、父親は鯛のお頭付きだった。
父はその半分を私にくれた。他の兄弟のうらやましげな視線を感じながらそれを食べた。
と言うことは、他の兄弟よりは有機水銀をたっぷりと含んだ魚を多く食べたことになり、そのたたり(食い物の怨みは恐ろしい)で
水俣病(今もって手足が震える)を患うことになったのかもしれない。

5歳の頃でしょうか。
父と鹿児島(市)に汽車(もちろん蒸気機関車)で行った。父が親戚の結婚式に出るためだったらしい。
当時米ノ津から鹿児島まで(約100キロ)は3時間かかった。はじめて汽車に乗ったはずなのに車中のことはあまり覚えていない。

 親戚は市内の加治屋町(西郷隆盛、大久保利通の生家のある町内)にあった。
そこでびっくりしたのは、ガスコンロだった。家ではまだ薪だったので、マッチ一つですぐ着火するガスコンロはまるで魔法のようなものだった。
 翌日、父は一人で出かけていった。一人でいること(その家のお手伝いさんはいたと思うが)は初めてだった。置いて行かれたようで妙に悲しかった。結局、父が帰ってくるまで泣き通していたような気がする。
 父は機嫌をとるためか、山形屋デパートに連れて行ってくれた。そこで初めて「お子様ランチ」を食べた。味は良く覚えていないが、型に盛ったチキンライスに日の丸がさしてあったのは鮮明に覚えている。

 今日はこれまで。
 次回はいよいよ一年生です。

追記
 吉野海岸からのお知らせ

 吉野海岸では毎月第三日曜日ビーチクリーンを行うことにします。

 先月の21日(日)に
 NPO法人沖縄O.C.E.A.Nの外国人スタッフ(5名)と観光客6名、宮古在住者7名(うち子供二人)計18名が参加しました。
 終わった後は、いろりを囲んでぜんざい(しるこ?)を食べながらの交流会になり、参加した人も「楽しかった。参加できて良か った。たくさんの人に出会えて良かった。」と好評で、これを毎月一回の恒例行事とすることにしました。
 
 今月は
 11月18日(日)
 作業時間 午前10時から午後12時まで(この間参加出来る時間でOK)
 お弁当は有りませんが、ぜんざいなど用意しています。
 その後は、天気が良ければ泳ぐも良し、アクセサリー作りも良し、流木磨きも良し、ブランコでぼんやりするのも良しです。
 宮古島在住の方、その日宮古に滞在の方是非参加してください。
 




 






宮古島に仙人村を創ろう!

2007年11月06日

Posted by 吉野のおじさん at 00:07 Comments( 3 ) 仙人村
 ブログのタイトルを変えました。

 「宮古島自立への提言」と言う消極的アクションのときは終わりました。
提言の構想実現へ踏み出す準備完了です。これからは積極的に実現へ向けて行動します。

 私が宮古島に来た目的は、30年、50年後の宮古島を構想し、それを実現することです。
30年後の宮古島は経済的にも豊かで、自然の中で人々が心豊かに暮らしています。
その頃は、多分、私はニライカナイ星(mixi「吉野のおじさん」のプロフィール参照)に帰っているでしょう。

 この準備に10年かかりました。
一人で出来ること、一人でなければ出来ないこと、一人でやるべきこと、私でなければ出来ないことは成し終えたと思います。

 「私でなければ出来ないこと」と言えば、自慢げに聞こえますが、生い立ち、性格など私の個性でなければと言うことです。
たとえば、私の特技(?)は2、3歳の幼児から80、90歳の人、職業の人、外国の人(ほとんどハート・ランゲージで)と会話(心を通じ合わせること)が出来ることです。これは八方美人的、よく言えばバランス感覚のある性格によるものです。

 また、ある人が、「よく吉野海岸で8年間もつづけてこれましたね。何がそうさせたのでしょうか?」と問いました。
それに対して私は「虚仮(愚か者)の一念でしょう。利口な人には出来ないし、やろうとも思わないでしょう。」と答えました。
これは鈍な性格(子供の頃は兄たちからよくからかわれた)だから出来たことです。

これらの性格(いいか悪いかは別にして)は親から貰い、親が育んでくれたもので、私が自慢できることでは有りません。

 話が変な方向に行きましたが、実は、この性格が形成された私の少年時代の思い出から「仙人村」の構想を思い立ちました。

 ところで、「仙人村」をどうイメージしますか?
 仙人が住む桃源郷(ユートピァ)?
 my mixi千人が住む村?

次回は「仙人村」の概要、吉野海岸との関係について書きます。皆さんのイメージをコメントください。
 

 追記
このブログでアフィリエイトしています。
下にある広告の商品をこのブログを通して購入されますと広告料が私に支払われます。

今まではある意味、貧乏が売りであり、ハングリースピリットが私の支えでした。
多分、私に金があって同じようなことをしてもこれだけのことは出来なかったと思います。

でも、これから先はお金がなけれ何も出来ません。
皆さんの支援が是非必要です。
よろしくご協力お願いします。














白化現象は地球の悲鳴

2007年08月22日

Posted by 吉野のおじさん at 21:54 Comments( 2 )
 先日、吉野海岸の珊瑚礁内の80%のサンゴが白化現象を起こしているとの新聞報道がありました。
白化現象の原因は、干潮時の高水温、長時間の直射日光の被曝などが考えられます。
枝サンゴは直射日光の有害な紫外線から身を護る液体を出してガードしていますので、ある程度の直射日光を浴びても生きられますが、今回の枝サンゴの白化は、その何日か前(6月半ば)、サンゴが干上がっているときスコール性の強雨があり、液体を洗い流し、そのあと強烈な直射日光を浴びたため白化したのではないかと考えられます。

 浜サンゴ(上が平らな、丸テーブル状の岩みたいな大きなサンゴ)の白化は7月の半ば頃から見受けられました。徐々に白化が進行していることから、海水位(潮位)の低下によるものではないかと思われます。浜サンゴは干潮時に日に曝される部分は上には伸びません。枝サンゴのように日焼け対策を行っていないためでしょう。潮位が下がることによって、今まで直射日光に曝されることのなかった部分が日光に曝されたための白化と考えられます。

 8年前から、毎日、吉野の海を見ていますが、潮位が40㎝~50㎝下がっているように見受けられます。吉野海岸の砂浜の中央付近に大きな岩がありますが、その岩を不動として観察すると、4、5年前に比べると砂浜が50㎝ほど下がっています。以前は、大潮の満潮時にはその岩の下まで波が来ていましたが、今は、砂浜が下がったにもかかわらず、岩まで波が来ません。

 潮位が下がった原因は地球温暖化にあると思われます。温暖化では海面上昇が言われていますが、それは平均的なもので、実際には、温暖化による異常気象による海水温の変化により水位の異常上昇(ツバル島の水没)する海域があり、当然その逆の水位が下がる海域があると考えられます。

 では、潮位が下がることによって、サンゴにどのような影響があるのか?
以前はサンゴが浮き出るのは夏期の大潮の3、4日間でしたが、最近は大潮の前後10日間になることもあります。ということは、直射日光を浴びる時間が長くなり、高水温になりやすく、にわか雨に遭遇する危険性が高くなります。また、潮位が下がることによって、日光対策が十分でない、種類のサンゴや海藻などが死滅し、珊瑚礁内の生態系が壊れることになります。

 今回の白化は自然現象ですが、この自然現象を引き起こした原因は、地球温暖化という人為的なものです。地球温暖化は人が物の豊かさを求めた結果発生した現象です。これを食い止めるためには、「心」の豊かさを求めるという、意識の改革が必要であると思われます。

 8年間の吉野海岸での活動は、物理的な保護には限界を感じ、「心」による保護を心がけてきました。
年間を通しての漂着物の収集は、浜で気持ちよく過ごしてもらうためです。(もっとも、最近では漂着物より気持ちの悪い物が浜を占領していますがー新聞投稿文にはなし)
 海からの贈り物としてサンゴのネックレス無料で差し上げていますが、このネックレスをもらったとき、子供の瞳がきらりとひかります。ひとかけらのサンゴで子供の瞳は輝くのです。この瞳の輝きが地球を救うことになると信じます。
 アクセサリー(ストラップ、ブレスレット、流木アートなど)作り、星砂探検、夜光虫見学は遊びに余裕(心のゆとり)を持ってもらうためです。心にゆとりを持つことによってが、自然を大切に思う「心の豊かさ」につながることになるのではないでしょうか。

 吉野海岸は地球規模で言えば、小さな点に過ぎません。また、そこで出会える人の数も全体から見ると微々たる物です。これを全体に広げていくことは気の遠くなるような思いです。しかし、今回の白化現象は、地球が発する悲鳴に聞こえます。その声は、この活動を続けていくことの必要性を教えてくれました。今後も吉野海岸を拠点として、この活動を続けていきます。

 吉野海岸で見かけたら、お気軽に、積極的に「吉野のおじさん」と声をかけてください。
 そして、みんなで、「心」を会わせて吉野海岸を、宮古島を、地球を護りましょう。
 「心」があればきっと護れると信じます。

                            NPO法人ニライカナイクラブ 事務局長 遠竹行良(こと吉野のおじさん)

以上の文章は8月21日の宮古毎日新聞の投稿欄に掲載されたものです。

 潮位の低下については、あくまでも私の「感じ」です。科学的な調査によるものではありません。この件について、専門的異論、ご意見がありましたら是非お聞かせください。









キビ農業は宮古島の文化

2007年04月04日

Posted by 吉野のおじさん at 00:13 Comments( 3 )
                               平成19年3月25日 宮古毎日新聞投稿欄掲載
             キビ刈り援農隊(キビ農業は宮古島の文化)
 
 宮古島最大のイベントキビの収穫が終わりました。
今年も城辺吉野地区を中心に援農隊(内地の若者を集めて)を組んでキビ刈りのお手伝いをすることが出来ました。この援農隊を初めて今年で5回目です。
 今年の参加人員は男性11人、女性5名(内一人は炊事係)、男性はキビ倒し(手斧でキビの根っこをカットして積み上げてゆく作業)専門で延べ日数253日、一日3.5t倒したとして約900t(ダンプ130台分)倒したことになります。20戸の農家のキビを倒し、沢山のおじぃ、おばぁの笑顔と出会えました。
参加した若者達も感動を持って旅立って行きました。

 キビ刈りのお手伝いをしていて感じたことがあります。

 今年は吉野地区では豊作と言うことでしたが、農家の人達に豊作の喜びは余り感じられませんでした。というのは、製糖期間が例年とおなじ60日間で、いつものペースで荷ごしらえしていては間に合わないためです。例年ですとダンプ1台6.5t積みが普通でしたが、今年はそれ以上に用意しなければなりません。また、機械刈りは収益率が悪いと言うことで手刈りを望む農家が多くなったことも忙しさに拍車を掛けることになり、何かしら追っかけられているような余裕のないものでした。
こんな思いをするのだったらキビ作りも続けられないなという声も聴きました。
 結果的には雨の日が多く、ハーベスター(大型キビ刈り機械)の稼働が出来ず期間が延長されました。製糖会社はハーベスターの稼働を計算に入れての期間設定と思いますが、手刈りを主体として、もう少し余裕のある期間設定が出来ないものでしょうか。これはキビ農業の存続に関わることと製糖会社は真剣に考えていただきたい。

 キビ作農業は宮古の文化と思います。現在の宮古のキビ作りの大半は高齢者です。子供達(大人)からは「もうキビ作りはやめたら」と言われているということも聴きました。
子供達も自分がキビ刈りをするのが嫌で言っているのではなく、親の健康を思ってのことであり、離れて暮らしているため思うように手伝いが出来ないという歯痒さからのことと思います。
でも、おじぃ、おばぁにとってキビ作りはには多くの思いがあり、人生そのものです。おいそれとやめることは出来ません。また、キビ作りをやっているおじぃ、おばぁは元気です。
 おじぃ、おばぁがキビを作る子供(大人)が手伝う、孫達がそれを見、手伝いながら育ち、そして宮古の文化が受け継がれていきます。

 きび作りの喜びはその収穫の時にあります。確かに手刈りは大変ですが、それだけに収穫の喜びが実感できます。私は今年62歳になりますが、ことしは60日キビを倒し(他の作業は苦手で倒し専門)ました。これも収穫の喜びを共感出来たから続けられたのです。
 体力的にはまだまだ働けるのに人手がないためにみすみす機械で刈らなければならない事は残念なことと思います。機械刈りと手刈りの収益率の違いははっきりとしたデータがないので何とも言えませんが、手刈りが得であると思うのには収穫の喜びを実感したいという思いがあるのではないでしょうか。

 そのことを思い援農隊を組んできました。おじぃ、おばぁの手助けをすると言うことだけでなく、参加する若者にとってもいい体験ができたと喜ばれています。
 キビ刈りを体験したい、お手伝いしたいという内地の若者は沢山います。この人達がキビ刈りに参加し、宮古の文化を知って貰い、真の交流を図ることで宮古の活性化につなげて行く、この活動を今後も続けて行きたいと思います。

 刈り取りの終わったパリ(畑)を眺めると「若者どもの夢のあと」といった感慨が湧きます。


 
 


吉野海岸問題解決方について

2006年12月24日

Posted by 吉野のおじさん at 00:52 Comments( 1 )
今年も暮れます。
吉野海岸にもいろいろなことがあって、俗化甚だしく、荒らされるまま何もしませんでした。何も出来ませんでした。

吉野の浜も静かになりました。
この時を待っていました。
 と言いうのは、吉野海岸の俗化は、旧城辺町の公共駐車場管理指定業者条例に起因していると思われます。条例の内容にも疑義はありますが、もっとも問題なのは、その運営(業者のやり方)にあります。業者が営業をやっている間、そのことを問題化することは、業者とのトラブルが予想されましたので行政との話し合いは控えていました。
 現在も業者は営業していますが、客もなく、開店休業状態です。
解決方について、行政と話し合うのには今がチャンスと考え、行動を起こすことにしました。

 先日mixiの日記「吉野海岸についてのご意見をお聞かせ下さい。」に対して多くのご意見をお寄せいただきました。
これらを参考にして、「吉野海岸問題解決方について」の要望書を宮古島市に提出することにします。

 この条例は、旧城辺町が合併前に急きょ制定したものです。
 合併後の宮古島市はその経緯、現状を把握していないと思われます。或いは、合併前に制定されたものとしてそれにタッチすることを遠慮しているのかもしれません。
 吉野海岸問題は吉野海岸だけの問題ではなく、宮古島全体の問題として、新市に真摯に取り組んで頂くよう要望したいと考えています。

条例運営上の問題点
1、進入道路の有料化(?)
 ① 「乗り入れ禁止」の立て看板
 ②進行方向指示の標識の路上設置
2、不公平感の件
3、徴収金の使途の件
4、トイレ有料化の件
5、シャトルバス運行上の問題点(陸運局の許可なし)の件
6、テナント業者の競合による俗化の件
 ・キャッチセール
 ・場所取りのための砂浜へのパラソル等の残置
 ・スタッフのマナー
 ・迷惑、自然に優しくない機材のレンタル
について、現状を説明し、、対策案を提言します。


吉野海岸保護について
 現在行われている条例は、上の公共駐車場の管理に関してのものであり、その範囲は上の駐車場だけに限られています。よって、吉野海岸の保護については一切関係ありません。
 吉野海岸の保護については、平成11年7月から個人として開始し、平成13年1月には沖縄県知事の認証をえて、NPO法人ニライカナイクラブが活動を続けています。
 私の吉野海岸の保護は、規制(公園、保護区域等の指定)による保護(これまで行政がこの方法でやってきたが、多くは逆に自然を壊す結果になっている。)ではなく、「人の為の保護(自然のための保護ではなく。)」、「心による保護」を基本理念とすることから、護る者と自然を愛する者とのコミュニケーションをとることを主眼としてしています。
 そのため、浜辺の清掃、注意事項として潮の流れ、危険生物のこと、サンゴの大切さについて口頭で伝え、コミュニティ広場(アダンの木陰)では貝殻、サンゴ、流木を使ったアクセサリー、飾り物作りを無料で指導してきました。その結果、相当の成果をあげ、評価も頂いています。
 今後もこの方法で活動を続けていきます。
市に対しては、そのことを認めて貰い、次のようなことを要望します。

1、駐車場管理指定業者の運営についての監督、指導の徹底。
2、排水路改修工事
3、下のトイレ、シャワーの修理
4、カーブミラーの設置
5、漂着ゴミの定期回収
6、「コミュニティ広場」として、浜辺の市有地使用許可
7、珊瑚礁保全についての条例の制定

 1、が徹底して実行(条例どおり運営されているかどうか、監督指導することは行政の義務です。)されれば、吉野海岸の雰囲気を取り戻すことは難しいことではありません。そうなると、民間の駐車場と同じで、利用者が選択出来ることになります。もちろん、トイレ、シャワーはフリーです。

 問題はその後のことです。 
 現行条例は吉野海岸の保護については規定していません。従って、業者は徴収金を吉野海岸の保護のために使う義務はなく、実際、保護には一円も使われていません。それでは駐車場を有料化する意味がないし、また、吉野海岸保護の継続が難しくなります。
 吉野海岸の保護を継続して行うために、NPOでは旧城辺町に収益事業(NPOは収益事業=営利事業を行うことが認められています。)として売店(利用者が安心して、気持ちよく利用できる店)設置の許可申請をしたが、自然保護を理由に却下されました。そして、現在行われている商行為は吉野海岸を護る(自然保護)という最も基本的なことを抜きにした目先の利益を求めるだけのものです。これを行政(旧城辺町)がバックアップしています。
 新市はこの事を充分理解できていないと思われます。

吉野海岸を護ることを経営の基本方針とするNPOニライカナイクラブが管理指定業者となるよう行政に働きかけます。

その成否のポイントはNPOの規模(会員数、資金力)にあります。残念ながら、現在のNPOは未だ弱体です。
 NPOニライカナイクラブは、会員が直接ボランティア活動をするのではなく、組織として社会貢献活動を行うものです。
 吉野海岸の清掃や注意事項の呼びかけはスタッフが行い、スタッフには給料が支払われます。
経費(人件費等)は入会金や収益事業の収益金でまかなわれます。従って、入会金によって、NPOが会員に変わって社会貢献活動を行います。入会金を収益事業の資金とします。と言うことは、会員が直接活動するのと同じ事なります。
 もちろん、会員が吉野海岸に来て浜辺の清掃をすることも大歓迎です。お掃除も結構心癒されるものがあり、楽しいです。

 当会では会員の負担は入会金(正会員10,000円以上、賛助会員2,000円以上)だけです。
年会費等の負担はありません。
 
 吉野海岸は、行政が係わるようになり、最早、個人ではいかんともすることが出来ません。
力を合わせれば、元の吉野海岸を取り戻し、子供達に残せると思います。

 吉野海岸を護ることに積極的に参加されるようお願いします。

 入会については、下記のアドレスにメールいただければ、「ご案内」をおくります。

 yoshinonoojisan@yahoo.co.jp


名も知らぬ遠き島より

2006年12月03日

Posted by 吉野のおじさん at 00:06 Comments( 0 )
♪名も知らぬ 遠き島より
   流れ寄る 椰子の実一つ
    ふる里の岸を離れて なれはそも波に幾月♪

吉野海岸には膨大な量の漂着物が流れ着きます。その大半は、流木、浮玉(時々貴重なガラス玉あり)、ガラス瓶などリサイクル可能なものです。

流木は表面を焼いて、サウンドペーパーで磨くと素敵な流木アートになります。

この流木アート製作でのエピソードがあります。

 新婚のカップルが流木で新居に掛ける表札を作ることになりました。二人での初めての共同作業と一つを渡しました。最初は仲良く交互に磨いていましたが、そのうち「俺がやる。」、「いや、私にもやらしてよ。」と奪いあいになり、険悪(?)な状況になりました。
 そこで、奥さんには「ご主人のお母さん(姑)に癒しグッズ(握っていると癒されるという小さな流木アート)を作ったら。」と小さな物を渡しました。2時間くらい掛けて、一所懸命磨いて、良い物が出来ました。私が「良い物が出来ましたね。姑さんにプレゼントすると嫁&姑の関係もうまくいきますよ。」というと、「いや、これは自分が使います。」としっかりと握りしめていました。磨いて行くうちに愛着が湧いて手放せなくなったようです。
 嫁&姑の関係をあやぶみましたが、それを持ったときの素敵な微笑みはきっと姑さんにも伝わるでしょう。

 流木には冒頭の「椰子の実」の唄のようにロマンがあります。長い間海を漂い、海から、空から沢山のエネルギーを貰っています。
 無心に磨くことで心が癒され、流木に新たな命を与えることで人は感動し、その感動が自然を大事にする心になります。その感動を求めてのリピーターが増え、自然が護られると同時に宮古島の活性化につながっていきます。

 また、浮き玉は、インテリア、ガーデニングに使えます。また、集めていると漁師の人が貰って行きます。ガラス瓶も「瓶風鈴」や流木と組み合わせて一輪挿しの飾りにもなります。

 このように漂着物をリサイクルすることによって、ゴミの減量化(地球環境保全に必要なこと)にもなります。
 このサイクル(漂着物によって癒され、その感動が自然を大事にする心となり、漂着物を拾うことで自然が護られるという循環)は漂着物の理想的な処理方法と自負しています。
吉野海岸ではこのサイクルがほぼ確立されています。
漂着物は宮古島活性化の重要な資源となりうると思います。

 NPOニライカナイクラブでは毎日午後、吉野海岸で流木アートの講習会を行っています。
費用は無料ですが、流木を拾いながら漂着ゴミを拾っていただきます。(レジ袋一杯程度)
それをやらないと流木アート作りが出来ないことではありませんが、これも結構楽しいものです。
「あ、これは台湾からだ。」、「マレーシアって何処にあるのかな?」と、宮古の海が世界中につながっていることが理解できます。このことは、それを捨てた国の人を非難するのではなく、自分たちが捨てた物が世界中に散らばっていることを理解できます。

 NPOニライカナイクラブでは、自然のための自然保護ではなく、「人のため(人が美しい自然に接することによって生きる元気を貰うため)の自然保護」、「心(規制ではない)による自然保護」を継続して実行するいくことを目指しています。継続するためには、”自分が楽しむ”という事が大事ではないかと思います。
自分が楽しむ事で意識が変わり、それが自然を護るという循環が継続を可能にすると考えます。

 お気軽に参加して、楽しみながら、このかけがえのない宮古島の自然をみんなで護りましょう。

                      


悠久の宮古島を更なる悠久へ

2006年11月18日

Posted by 吉野のおじさん at 00:25 Comments( 0 )
 ここ2、3年宮古島は急速に変わっています。補助金の削除、公共工事の削減がボディーブローのように体力(経済)を消耗して、その将来が懸念されます。
 吉野海岸の状況はその前兆と見るべきでしょう。生活のためには、自然を護ることは二の次と言った風潮は、今後、急速に宮古島全体に蔓延する恐れがあります。
 空港ビルを出たとたん、物売りや客引きが観光客を取り囲んでいる風景を見ることになりかねません。

 宮古島の魅力は「おおらかさ(ゆったりとしてこせこせしない様子)」にあります。宮古島は「癒しの島」と言われていますが、癒しの根源はこの「おおらかさ」にあります。
 復帰前の宮古島は経済的には貧しくとも心豊かな暮らしがあり、その心の豊かさが「おおらかさ」を醸し出していたのです。復帰後は、経済的に豊かになりましたが、そのことが格差を生み、「おおらかさ」が薄くなったように思われます。
 宮古島にとって「自然(海)」と「癒し」は重要な観光資源です。このままでは自然が壊され、癒しを醸し出す「おおらかさ」がなくなれば、宮古島の魅力がなくなってしまいます。
 宮古島の「自然」を護り、「おおらかさ」を取り戻すためには、経済的に豊かになること(経済的自立)」が必要です。

 また、今年度から伊良部架橋が着工されました。今更、その是非を問うつもりはありませんが、何故、この時期に子供達から借金(有料道路としても工事費を返済できる程の収入は見込まれない。)してまでと疑問に思われます。
 確かに一時的には景気は良くなるかもしれません。しかし、それは一過性のもので工事が終われば、今より深刻な不景気(バブル崩壊後のような)が予想されます。そのような状況下で、振興資金と交換条件に下地島を自衛隊基地或いは米軍基地にとなったとき、これを拒否できるでしょうか。これに対して「NO」と言うためには、10年後には自立の目途をつけておく必要があります。
「癒しの島 宮古島」に戦闘機の爆音は似合いません。

 さらに、現在、宮古島には3千人~5千人の島外出身者がすんでいると言われます。市人口の約7%です。今後この割合はもっと高くなることが予想されます。
 沖縄と大和には文化の違いがあります。戦争は異文化(異民族、異宗教、異思想)のぶつかり合いです。争いは仕事の取り合いでも起こります。格差は対立を生みます。多くの歴史がこのことを物語っています。
 宮古島の平和は自立あってこそ保たれるのではないでしょうか。

 昨年10月宮古島市が発足しましたが、合併のメリットは充分に活かされていないように感じられます。今こそ、合併のメリット、架橋工事による活性化、団塊の世代の持つD資金を有効に使い、宮古島の自立を目指す時と思います。

 NPOニライカナイクラブは、内外の民間活力を集め、行政と協調して、宮古島の自立を実現することを目的とした組織です。 
 
 宮古島の「自然」を護り、「おおらかさ」を失わず、悠久の「美ら島宮古島」を更なる悠久へつなぐために、NPOニライカナイクラブが宮古島自立へのリーディングシステムとして必要なのです。
 
 NPO会員としての特段の特典はありません。入会することが社会貢献活動になります。
そのことによって、「宮古島の自然を護ることに参加した。」という誇りが持て、会員であることが一つのステータスとなるようなNPOを目指しています。


 NPOニライカナイクラブについての問い合わせは下記のメールアドレスへお願いします。
   yoshinonoojisan@yahoo.co.jp


漁船座礁に思うこと

2006年10月19日

Posted by 吉野のおじさん at 23:58 Comments( 1 )
去る16日 夕方 吉野海岸の珊瑚礁に漁船が座礁した。
昼間から吉野海岸の正面付近に停泊していた。
漁でもしているのだろうと思って気にもとめなかったが、3時半(潮が満ちてきた)頃、ゆっくりと移動し始めた。
漁をしている船だったら、漁が終わると勢いよく帰って行くのにおかしいなと思っているうちに、波に押されるように座礁してしまった。
台風18号の影響と思われる小さなうねりはあったが、時化ているというほどのものではなかった。
人が乗っていたら充分に避けられる状況であった。
にもかかわらず、座礁してしまった。
煙突から薄い煙も出ていたから無人とは思わなかった。
しかし、人がいる気配が全くない。保安庁のヘリが来たが誰も外に出てこない。ヘリもそのまま帰って行った。無線での応答もなかったらしい。

結局、船には誰もいなかった。

船は糸満船籍のマグロ延縄漁船で船長一人で操業していて、何らかの事故(マグロに引き込まれるとか)で行方不明になつたものらしい。

船長は何故一人で操業していたのだろうか?
船の大きさからみると、4、5名の乗組員がいてもおかしくない。
にもかかわらず一人しか乗っていなかった。
常識的には考えられないことである。

船長は茨城県の人で最近糸満に来てこの船を購入した。

これから先の話は私の推論である。

私はこの船長の年齢も、職歴も、漁業の経歴も知らない。
事故の処理に子供が来ていたと言うから若くはないだろう。
決して安くはない漁船を買い、マグロの延縄漁をするくらいだから漁業経歴も充分あると思われる。
また、ある意味、人生を賭してのことだから、事前調査も充分しただろう。
にもかかかわらず、一人で操業せざるを得なかった。
問題は茨城の人が沖縄の糸満でということにあるのではないだろうか。
地理的にとか、内地の人が沖縄でと言うことではない。
もしこの船が糸満の人のものだったら、船長一人で船をだすことはなかったのではないだろうか。
知らない所で人を集めるのは難しいということである。
特に生死を共にするであろう漁業船の場合、より緊密な(方言で怒鳴りあえるほどの)人間関係が求められるのではないか。
金の問題ではない。文化の同一性の問題と思われる。

これは漁業関係の事だけではない。
現在、沖縄ブームで沖縄に住みたいという人はたくさんいる。
知らないところで住むのは容易なことではない。
いわば母港を離れてよその港で操業するようなものである。
沖縄と大和には文化の違いがある。
このことを充分理解(同一化すること難しい)しないと結局は母港(心のよりどころ)を失って漂流することになる。

今回の事故はそのことを教えてくれた。

船長の奇蹟の生還を祈ります。






かたき土を破りて

2006年10月02日

Posted by 吉野のおじさん at 00:44 Comments( 6 )
♪かたき土を破りて
   民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ
    我らと我らの祖先が血と汗をもて
     守り育てた 沖縄よ
   我らは叫ぶ沖縄よ 我らのものだ 沖縄は
  沖縄を返せ 沖縄を返せ♪ 

沖縄が復帰して34年、この歌を知っている人がどのくらいでいるだろうか。
知っている人もほとんど口にすることはないかもしれない。

私は時々この歌を口ずさむ 吉野の浜で一人ゴミを拾いながら 大声で歌う。
ある時は 涙を流しながら 歌うこともある。
ある時は これを歌うことで 自分を鼓舞することもある。

私は 沖縄の生まれでもない。ルーツも沖縄ではない。

私の沖縄への関わりは13才(中1)の時に始まった。
当時 家に小学校の先生が下宿していた。
その先生に「平和大行進」に行こうと誘われて 訳の分からないままに参加した。
記憶は定かではないが、平和大行進は沖縄から広島へリレー式に行進するもので、上記の「沖縄を返せ」や「ふるさとの街焼かれ」を歌いながら行進した。中学の時は毎年参加して、その歌はしっかりと覚えている。

そのままだったら たんなるノスタルジヤに過ぎなかった。

昭和41年9月沖縄宮古島を未曾有の台風(第二宮古島ーコラ台風)がおそった。
当時は復帰前で沖縄の災害復旧には自衛隊は出動できず、産業開発青年隊(建設省中央訓練所)
が派遣されることになり、その一員として災害復旧活動に参加した。
多感な弱冠二十歳の若者であった。
炎天下の中、仮設住宅の基礎工事ではツルハシでコーラルに穴を穿った。
しかし、そのことはつらいとは思わなかった。
仮設住宅が出来ることで、おじぃ、おばぁ達は喜んでくれた。
おやつには市販のパンを出してくれる所もあった。それを当然として食べた。
その日は、基礎工事に手間取り、夕暮れまで作業することになった。
おばぁが夕食の支度をしていた。
雑炊だった。中身はよく分からないが、野菜だけ(一片の肉も入っていない)の貧しいものであった。
おやつのパンを当然として食べたことが恥ずかしかった。
パンを買わなければ、肉を入れることが出来たかもしれない。
おばぁの優しさが何故か悲しく思えた。
このことが、私の宮古島への思いの原点となった。

戦後21年のことである。
大和(沖縄では今で言う内地を大和または本土と言っていた。)は高度成長のまっただ中にあった。

その後、私は沖縄返還運動にも参加した。
それは、あの優しいおじぃ、おばぁ達の血のにじむような願いであった。

昭和47年、沖縄は本土復帰した。
日本国政府は復興資金として莫大な資金を沖縄に投下した。

宮古島もどんどん変わっていった。
白いコーラルの道は、アスファルトに変わった。
松林やモクマオ林は重機で簡単に畑に変わった。
浜の砂は建材として持ち去られ(吉野海岸は砂浜の真ん中付近にある大きな岩が見えないくらいの砂浜だった。)、護岸工事で砂浜は失われていった。
海岸沿いの防風林はなぎ倒されてリゾート地となった。
人の心も変わった。
格差(たとえば、道路工事で補償金を貰えた人と貰えなかった人)は人間関係を歪めてしまった。

確かに経済的には豊かになったが、失われたものは大きい。

そして今、政府の手厚い保護はなくなった。

過保護は人を無気力にする。甘えの構造(金は政府に泣きつけばいくらでももらえると言う、イージーな意識)だけが残った。


最近、家の近くに畑(約600坪)を借りた。
5、6年放置されていた荒れ地である。
銀合歓が生い茂り、その根がはびこっている。まさに「かたき土」である。
この土地を出来るだけ機械を使わないで人力で開墾することにした。
あの優しいおじぃ、おばぁ達がやってきたこと(我らの祖先が血と汗をもて、守り育てた)である。

私が畑で作業していると、通りがかりの人は「何で難儀するか?。ユンボ使えば簡単じゃないか。」という。私が「結構楽しいですよ。」というと、あきれ顔で去ってゆく。

吉野海岸の掃除を始めたときもそうだった。
潮干狩りに来たおばぁ達に「何でそんな難儀するかよぉ。」とよく言われた。
最初の頃は、ぷりむぬ(馬鹿者)と思っていたらしい。
半年ぐらい経ったって、なじんできたら、オロナミン(宮古のおばぁ達はドリンク剤が好き。)など持ってきてくれるようになった。
そして、その難儀の結果、今の吉野海岸(ゴミのない、孫達に自慢できる浜)があることに感謝されている。

今度は、畑でこれをやろうと思う。
私の宮古島自立への構想は「エコサスー地球にやさしい誰にでも出来る農業システム」による農業が主体となる。
これには、心が必要である。
このことを言葉で伝えることは難しい。
結果を持って伝えたいと思う。

前途多難ではあるが、冒頭の歌を歌うことで己を鼓舞している。

吉野海岸の今の状況は、私の意図したものではないが、結果的に私が引き込んだ事(観光客を増やし、その結果、我利我利亡者の餌食になってしまった。)かもしれない。
しかし、これはまだ結果ではない。
ネバーギブアップ!

私は二度とあの光景(貧しい食事)を宮古で見たくはない。
畑の開墾も、吉野海岸を元に戻すことも宮古島の活性化を図る手段である。

よって、これからは午前中は畑、午後は吉野海岸に居ることになる。


「アダンの木陰」の由来

2006年07月25日

Posted by 吉野のおじさん at 23:41 Comments( 9 )
吉野海岸のコミュニティ広場の名前を「アダンの木陰」と言います。
今は 陰を作るようなアダン樹は有りません。4年前アダン林が何者かによって切り倒されという事件がありました。この事件については平成14年6月に新聞投稿し、掲載されました。

「吉野海岸にて」

♪ 別れの日は来た 吉野の浜にも 君は手を振る 坂道にたたずみ 
     忘れちゃいやだよ 吉野のおじさん アダンの木陰よ また来る日まで ♪
 
 これは私が作った「知床旅情」の替え歌「吉野浜旅情」の三番の歌詞です。
吉野浜には樹齢数十年のアダン樹の林があり、その木陰は格好のやすらぎの空間として、沢山の人に親しまれていました。そのアダン樹が何者かに切り倒されてしまいました。全部(二十数本)です。
きれいさっぱりと全部です。

 ブランコに揺られ、流木のベンチで憩い、おさなごはお砂遊び、さんごや貝殻でのアクセサリー作り、流木みがき、みんなアダンの木陰でのことでした。その木陰がなくなりました。
浜から不思議そうな面持ちで見上げ、恐る恐るのぞき込むようにして「ここ何?」、「こんなところ初めて見た!」、「日本じゃないみたい!」、「写真撮ってもいい?」と言われたあの不思議空間の今は在りません。

 樹によじ登る少年、はらはらしながら見守る母親、その眼差しの先に赤いアダンの実、良くパイナップルに間違われたアダンの実も青いままに終わりました。

 でも、アダン樹は復活します。砂遊びをしていたおさなごが恋をささやく年頃になったらきっとよみがえります。それまでしばらくの「お休み」を。
そして、「数々の感動と思い出をありがとう。」との思いを込めて、倒された樹を挿し木し、水をやり、一日も早い再生を願って丹精しました。ところがその挿した樹も全部抜かれました。30日(平成14年5月)のことでした。抜かれた樹の根方には新しい小さな根が出ていました。無惨という以外言葉もありません。

 この破壊行為に怒りを覚えると同時に、それを行った人達(一人ではできないボリュウム)の心の貧しさに悲しみを感じます。或いは、行為者達は正義を行ったつもりでいるかもしれませんが、如何なる正義の主張が有ろうとも夜陰に乗じて行う行為は犯罪であることをわきまえて貰いたい。

 これを機に、私が吉野海岸で行っていることの私の主張を述べたいと思います。
私の自然保護の考え方は、自然のための自然保護(放置)ではなく、人のために自然を護ることと考えています。人が自然に接し感銘を受け、生きる勇気を得、癒されことによって自然の美しさ、大切さを認識することによって自然保護への意識も高まるものと思います。

 吉野海岸では、遊泳者に幾つかの注意事項を話しています。或いは僭越と思われる人もいるかもしれません。実際、一民間人が初見の人に声をかけ注意事項を話すことははたで見るほど楽なことでありません。初見で相手にこちらの真意を伝えることは大変な勇気とエネルギーを要します。
その勇気を得るため、毎日、海岸のゴミを拾い、シャワー・トイレ(残念ながら公設のトイレは何者かが便器にコンクリートを流し込んだため使用できませんが、手作りの簡易トイレを作ってあります。)の管理、道路の補修(夜間工事)、道路の草刈りなど、皆さんが気持ちよく安全に遊んで貰えるような環境作りを心がけています。そうすることによって自分自身の自負として、初見の人へ声を掛けられる勇気が湧いてきます。

 或いは、民間でやらなくても、行政でやればいいではないかとのご意見もあるかもしれませんが、残念ながら、吉野海岸は世界遺産クラスの浜珊瑚群を有しながら、自然環境保全地域でもなく、文化財保護の環境保全区域でもなく、海中公園でもないため法律による保護は受けられない海岸です。
宮古島でも奇跡的に残された吉野海岸を護るためには、法律による規制ではなく、人と自然との共生を図りながら、人の自発的な自然保護への意識を高めてゆくことが早道であることを確信します。
 そのためには、コミュニティ広場としての「アダンの木陰」は必要であり、人と自然、人と人を仲立ちする人も必要です。
 よって、今後、如何なる嫌がらせや脅迫を受けようとも毎日吉野海岸へ通い続けます。